背番号は空欄
二十一時五十分。市営体育館のロビーで、笹倉章仁は海老名伶の移籍届を前にしていた。窓口が閉まるまで十分。社会人フットサル部の主将として、最後の承認欄へ署名する必要がある。
伶は七年間、背番号を空欄のままにしていた。大会ごとに余った番号を着る。「好きな番号が決まったら教える」と言い続け、章仁も急かさなかった。チーム内恋愛は禁止。彼が主将になった日に決めた規則で、過去の揉め事を繰り返さないためだった。伶は規則を聞いた日から、試合後に二人で食事へ行っても必ず「反省会」と呼んだ。章仁も会計を分け、帰り道で手が触れてもボールの話を続けた。練習後のメッセージも、必ずチーム連絡の形式で送った。
「移籍先、強いらしいな」
「うん。背番号も選べる」
「十番がいい。似合う」
「章仁の番号じゃん」
「だから、友達として譲る」
伶は移籍届を引き寄せた。
「前に訊いたよね。チームを辞めたら、私は規則の外?」
「冗談だと思った」
「いつもそれ」
章仁は笑えなかった。伶がほかのチームへ行く理由を、競技への意欲だと決めていた。自分の名前が理由に含まれる可能性を、規則で見えなくしてきた。
二十一時五十七分。伶は主将腕章を返し、駅へ走った。新しいチームの練習へ向かう最終電車がある。
腕章の内側に、白い布が縫いつけてあった。汗で薄れた文字を読む。
〈辞めたら、章仁の好きな番号になりたい〉
日付は二年前。伶が足を痛めて休んだ夜、章仁が「戻る場所は空けておく」と渡した腕章だった。彼女はその言葉を競技だけの意味にしたくなくて、見えない側へ返事を書いた。章仁は一度も裏返さなかった。
窓口の職員が「締めますよ」と声をかける。章仁が承認しなければ、移籍は来月まで延びる。彼女をチームに残すことはできる。けれど、それではまた規則の内側へ閉じ込めるだけだった。
二十一時五十九分。章仁は移籍届の主将欄へ署名した。背番号の希望欄には何も書かず、空欄のまま窓口へ差し出した。