花嫁の左耳
挙式まで九分。神谷遼は花嫁控室の前で、片方だけの白いイヤホンを門脇すみれへ差し出した。
遠距離だった頃、二人で一組を買い、遼が右、すみれが左を使った。別れた日、彼女は右だけを返し、左はなくしたと言った。今朝になって〈見つかったから受け取って〉と連絡が来た。遼は、それを最後の私物返却だと考え、式場へ来る途中で右側の充電まで満タンにしていた。二つ揃えば何かが戻る気がしたのだ。
「今日じゃなくてもよかっただろ」
「今日じゃないと、捨てられないと思った」
ケースへ入れた瞬間、遼のスマートフォンが勝手に接続した。再生中の表示とともに、聞き覚えのある音声が流れる。
三年前、すみれが海外赴任を告げた夜のボイスメッセージだった。
〈二年は戻れない。待たなくていい〉
遼はそこまで聞いて、翌朝に別れを送った。画面の音声は、さらに十二秒続いた。
〈――って言うつもりだった。でも本当は、待っていてほしい。帰ったら、一緒に住みたい〉
遼は息を止めた。
「その続き、初めて聞いた」
「嘘」
「俺の端末では、最初の部分で終わってた」
当時のイヤホンは左右それぞれに音声を一時保存する仕様で、通信が切れた最後の十二秒だけが左側に残っていたらしい。すみれは送信済みだと思い、遼は聞き終えたと思った。右のイヤホンだけでは、続きは再生されなかった。
「だから、あんなに早く別れるって言ったの」
「君が望んだと思った」
「私は、望んでないことを言おうとして、最後に訂正した」
「俺は訂正を聞かずに、望んでないことをした」
介添人が扉を開け、時間を告げた。すみれの左手には、新しい人生の指輪が光っている。十二秒早く届いていれば、今日の相手は違ったかもしれない。だが今その十二秒を使って、誰かの人生を壊すことはできない。
すみれがイヤホンをケースへ戻そうとした。遼は首を振った。
スマートフォンの設定を開き、〈このデバイスの登録を解除〉を押す。左のイヤホンを白いブーケの横へ置き、再生の止まった廊下を歩き出した。