蕎麦畑の白い息
矢萩凛生は、外食チェーンの地区責任者だった。
厨房の動線、提供時間、原価率。料理は数字どおりに出てくるほど優秀とされ、味見をするより表を眺める時間の方が長かった。
退職して高原の村へ移ったとき、古民家の隣に小さな畑を借り、蕎麦を育てることにした。
種を蒔くと、一週間で細い芽が並んだ。
凛生は密度を測り、成長を記録し、収穫量を予想した。近所の蕎麦打ち名人はノートを見て感心しながら言った。
「食う前から、ずいぶん腹いっぱいだな」
凛生は笑えなかった。
夏の終わり、畑一面に白い花が咲いた。
風が吹くたび、花は同じ方向へ倒れ、また起きる。凛生は写真を撮ろうとしたが、画面に収めると急に狭く見えた。携帯をしまい、畦へ座る。
蜂の羽音、乾いた草、遠くの牛の鈴。
何もしない時間に慣れず、最初は膝が落ち着かなかった。
秋、収穫した実を干し、石臼で挽いた。
粉は市販品より粗く、色もそろわない。水を加えるとまとまりにくく、最初の蕎麦は太さがばらばらになった。
「店では出せない」
凛生が言うと、名人は一本すすった。
「ここは店じゃない。今日は昼だ」
二人で笑った。
茹でた蕎麦を古い卓袱台へ置く。
短く切れた麺も、太い麺もある。辛味大根を添え、温かなつゆをかけると、湯気に出汁と蕎麦の香りが立った。
噛むほどに穀物の甘さがあり、均一な麺にはなかったざらりとした舌触りが残る。
「次は、もう少し細くしたい」
「次があるなら、それで十分」
湯気の向こうで、名人の箸も同じ速さで止まったり進んだりした。
冬、畑は霜で白くなった。
凛生は朝のうちに薪を割り、昼には翌年の種を選んだ。収穫予測の表は作ったが、最後に「花を見る日」という項目を加えた。数値は空欄のままにした。
夕方、土間の鍋で蕎麦湯を温める。
窓硝子が白く曇り、外では自分の吐く息も畑と同じ色になった。
凛生は湯呑みへ口をつけた。薄いとろみと穀物の香りが喉へ降りる。正確ではない一杯が、忙しかった何年分もの空腹を、ゆっくり埋めていった。