豆の拍手
喫茶「木曜日」の閉店後、磯貝才門は、紙袋から腹話術人形を取り出した。
店主は洗ったカップを落としかけた。
「それ、何です」
「見ればわかるでしょう。税理士です」
人形は黒い背広を着て、才門と同じ八の字眉をしていた。
「腹話術人形に職業が?」
「彼は節税に詳しい」
「怖い方向に詳しそうですね」
才門は四十七歳。昼間は近所の会計事務所で働き、毎週木曜、閉店間際にブレンドを飲む。数字の間違いを見つけると嬉しそうにするが、自分の話はほとんどしない。
その夜は珍しく、「相談がある」と残った。
「会社を辞めようと思います」
「人形に専念するため?」
「話が早い」
「遅くしたいです」
才門は人形を膝に乗せた。
子どもの頃、テレビで見た腹話術師に憧れた。だが父に「口を動かさずに喋るより、口を動かして営業しろ」と言われ、そのまま堅い仕事に就いた。
今度、商店街の祭りで舞台に立たないかと誘われたらしい。
「出ればいいじゃないですか」
「笑われます」
「腹話術は笑わせるものでは」
「そういう笑いではなく」
才門がうつむいたとき、カウンター奥の豆瓶が、さらさらと鳴った。
誰も触れていない。
深煎りの豆がガラスの中で跳ね、ぱらぱら、ぱらぱらと乾いた音を立てる。
「ネズミですか」
「うちのネズミ、拍手が上手なんです」
「拍手?」
「もう一度、言ってみてください」
才門は眉をひそめた。
「商店街の舞台に、立ちたい」
豆が一斉に跳ねた。
ぱらぱらぱらぱら。
「もっと大きな声で」
「腹話術師になりたい!」
どっと拍手が起きた。豆瓶だけでなく、ミルの受け皿に残った粉まで震えた。
才門は人形を見た。
「君もそう思うか」
人形が首を傾ける。
才門は唇をほとんど動かさず、低い声を出した。
『税理士は続けろ。祭りは出ろ』
店主は吹き出した。
「現実的ですね」
『住宅ローンがある』
「夢にも帳簿をつけるタイプだ」
祭りの日、才門は会社を辞めず、有給休暇を取った。
舞台では最初の三分、客席が静まり返った。四分目、人形が商店会長の申告漏れを指摘し、会場が爆笑した。
才門は笑われた。望んでいたほうの笑いだった。
次の木曜、彼は人形と一緒に来店した。
閉店後、二人分のコーヒーを注文する。
店主が「次の夢は?」と聞くと、才門は照れながら、町の子どもたちに教室を開きたいと言った。
豆瓶がまた鳴った。
才門は立ち上がり、深々と一礼した。
拍手を受ける作法だけは、もう腹話術師だった。