豆腐屋の前の赤い首輪

 塩見崎莉央は、商店街のスーパーで夕方のレジに入っている。

 常連客の顔は分かるが、名前までは知らない。豆腐屋の老主人、花柄の買い物袋の女性、毎週金曜に牛乳を二本買う青年。

 その人たちが一斉に店へ駆け込んできたのは、赤い首輪の犬・豆助が消えた日だった。

 豆助は豆腐屋の看板犬で、店の前の椅子にいつも寝ている。

 配達の箱を運ぶ間に、首輪だけを抜けて歩き出したらしい。

「足が遅いから遠くへは行かない」

 老主人は言ったが、声は震えていた。

 莉央は店長の許可をもらい、サービスカウンターで迷子の放送をした。

 買い物客たちは会計を終えると、それぞれ帰り道を少し遠回りした。花柄の袋の女性は公園へ、牛乳の青年は駅前へ。青果担当は段ボールへ大きく犬の絵を描き、入口に立てた。

 豆助は匂いにつられやすい。

 豆腐屋の揚げたての厚揚げ、とりわけ焦げた端を嗅ぐと、どこからでも顔を出すという。

 老主人は店の火を落としかけていたが、もう一度油を温めた。

 じゅう、と豆腐が沈み、香ばしい匂いが商店街へ流れた。

「匂いの道を作ろう」

 スーパーの総菜担当が提案した。

 厚揚げそのものを置くのではなく、油を含ませた紙を少しずつ持って歩く。衛生に気をつけながら、駅、公園、裏通りへ分かれた。

 莉央は閉店後の通路を担当した。

 シャッターの下りた靴店の前で、赤いものが見えた。

 首輪ではなく、豆助の古いバンダナだった。そばのベンチの下から、低い鼻息が聞こえる。

 豆助は疲れて眠っていた。呼ぶと目を開け、油の匂いがする紙へ鼻を近づける。莉央がリードをつけても抵抗せず、ゆっくり立ち上がった。

 豆腐屋へ戻ると、老主人は犬の顔を両手で挟んだ。

「お前、店番をさぼったな」

 叱る声なのに、笑っていた。

 捜した人々へ、揚げたての厚揚げが配られた。

 葱と生姜をのせ、醤油を一滴。閉店後の商店街で、皆が立ったまま食べる。

 莉央は初めて、花柄の袋の女性が理髪店の奥さんで、牛乳の青年が夜間学校へ通っていると知った。

 豆助は赤い新しいハーネスをつけ、店先の椅子へ戻った。

 翌金曜、牛乳を二本通したとき、青年が「豆助、今日もいました」と話しかけた。

 会話はそれだけだったが、莉央には商店街が少し明るく見えた。

 外からは、豆腐を揚げる油と生姜の匂いが届く。レジの電子音の合間に、赤いハーネスの金具が小さく鳴っていた。