赤いピアノ教本

赤い教本は、ピアノの譜面台に開いたまま置かれていた。

初音が最後に閉じたはずのページには、母の赤鉛筆で丸が三つついている。右手、左手、両手。二十代の今でも、ページを見れば肩が上がった。

「これも一緒に持っていくでしょう」

母は教本を持ち上げ、運送業者の来る玄関とは反対側へ置いた。今日、ピアノは近所の児童館へ引き取られる。初音が手配し、母も先週は同意した。

「教本も児童館に渡すよ」

「名前が書いてあるのに」

表紙の裏には「はつねちゃん」とある。母の丸い字だ。

「消せば使える」

「あなた、また弾きたくなるかもしれないでしょう」

初音は鍵盤の蓋を開けた。中央のドを一度だけ押す。少し低い音が、空になった居間へ伸びた。

「弾きたくなったら、そのとき自分で鍵盤を買う」

「こんないい物を、わざわざ手放して?」

「これは私が選んだピアノじゃないから」

母の指が教本の角を強くつまんだ。言い返す代わりに、赤鉛筆の丸を一つなぞる。

初音は消しゴムを持ってきた。名前の上をこすると、紙が薄く毛羽立った。「はつねちゃん」は完全には消えず、淡い影になった。

「そんなに消したいの」

「次に使う子の名前を書く場所を作ってる」

「私が悪いみたいね」

初音は消しゴムのかすを手で集めた。

「悪いかどうかを決める片づけじゃないよ。持っていかないと決める片づけ」

呼び鈴が鳴った。運送業者が二人、青い毛布と太いベルトを持って入ってくる。母はピアノの前に立ったままだったが、やがて椅子から離れた。

初音は赤い教本を業者へ渡した。母が「ちょっと待って」と言い、教本の間から赤鉛筆を抜く。

「これは私のだから」

「うん。それはお母さんの」

初音が答えると、母は赤鉛筆をエプロンのポケットへ入れた。

ピアノが玄関を通るとき、最後の一音が振動で鳴った。誰も弾いていない、短い音だった。

空いた壁には、四角い日焼け跡が残った。母がそこを見て、「何を置くの」と聞く。

「何も。しばらく空けておく」

初音はピアノ椅子も運び出してもらった。座る位置まで残さなくていい。赤い丸のない空白を、今度は急いで埋めないことにした。