返しそびれた青い傘
奈帆は二十八歳の誕生日に、七年前に借りた傘を返しに行った。
青い長傘は、大学の卒業式の日、遥紀が貸してくれたものだ。雨がひどく、奈帆のビニール傘は駅前で折れた。翌週返すつもりが、就職、引っ越し、気まずい別れ話と続き、傘だけが三つの部屋を一緒に移った。
余命を告げられてから、奈帆は身辺整理という言葉を嫌った。物を捨てるたび、死ぬ準備に見える。けれど借りたものを返すのは、捨てることではない。
傘は前の晩に浴室で洗った。骨の間にたまった埃を流し、布を開いたまま乾かした。持ち手の傷は消えなかったが、留め具の青は少し明るくなった。奈帆は新品のように見せたいのではなく、借りたときの形に戻したかった。
駅まではタクシーを使った。花屋までの百メートルだけ歩き、途中で二度立ち止まった。晴れた空の下で長傘を持つ姿を、通りすがりの人が一度だけ振り返った。
遥紀は駅裏で小さな花屋を開いている。店先の黒板には、本日のおすすめとして白いトルコ桔梗が描かれていた。
奈帆が傘を持って入ると、遥紀は花鋏を置いた。
「雨、降ってないよ」
「返しに来た」
「何を?」
「これ」
青い傘を差し出す。持ち手には細い傷が増え、石突きの金属は少し錆びている。内側には、大学名の小さなシールまで残っていた。奈帆は何度も使った。急な雨の日、それを開くたびに、返していないことを思い出した。
遥紀は傘を受け取り、留め具を外した。店の中で半分だけ開き、骨を確かめる。
「まだ使えた?」
「丈夫だった」
「高かったからね。学生には」
「知ってたら早く返した」
「知らなくても返すものだよ」
昔と同じ言い方で、奈帆は少し笑った。遥紀も笑いかけ、奈帆の痩せた手首を見てやめた。
「今日、誕生日なんだ」
「覚えてる」
「それで、今日中に返したかった」
遥紀は理由を尋ねなかった。代わりに、傘立ての古いビニール傘を二本抜き、青い傘の場所を空けた。
奈帆は濡れてもいない傘の表面を手のひらで一度撫でた。七年前の雨粒はもうどこにもない。
遥紀が傘を畳み、留め具のボタンを留めた。