逆さの子守歌
雨宮恒星が獄中で死んだ日、十八歳になった娘の朔羅へ一曲の子守歌が届いた。父が十年前に予約した投稿だった。
恒星は、妻を殺して遺体を捨てた罪で服役していた。逮捕後も動機を語らず、朔羅への手紙には「眠れていますか」としか書かなかった。世間は無口な殺人者と呼び、朔羅は名字を変えて育った。朔羅には事件の記憶がない。ただ、母が消えた夜、父が何度も背中を撫でてくれた感触だけを覚えている。
「おやすみ」
イントロの声は優しかった。
古いオルゴールと、低く歪んだベース。再生画面には、カセットテープが逆向きに回る映像が映っている。コメント欄では、逆再生すれば無実の証拠が出るのでは、と推理が始まっていた。
「目を閉じて」
Aメロのたび、朔羅の中で欠けた夜が少しずつ戻る。玄関に積まれた大きな旅行鞄。父の濡れた袖。遠くで鳴る母の携帯電話。幼い自分は、鞄の上に座って歌っていた。
画面に〈reverse〉というボタンが現れた。
朔羅は押した。
再生速度を落とすと、波形の中央に子供の横顔のような形が浮かんだ。父が最後まで隠したかったのは無実ではなく、娘の声なのだと、その時の朔羅にはまだ分からなかった。
旋律が裏返り、甘い音が錆びた刃のように軋む。父の声は意味を失ったが、その下に隠れていた環境音が前向きになった。車のエンジン。トランクを閉める音。布を内側から引っ掻く音。
そして、かすかな母の呼吸。
母はその時、まだ生きていた。
朔羅はイヤホンを外そうとした。しかし逆再生のサビに、幼い自分の声が重なる。
――もっと歌えばいい?
――ああ。お母さんが起きないように。
――おやすみ、お母さん。
父は子守歌で、トランクの音を隠していた。朔羅自身も、何も知らずに大声で歌った。記憶がないのではない。父の優しい手と旋律を、安心の記憶として選び直していたのだ。
最後の一音は、オルゴールの蓋が閉じる音だった。
「おやすみ」
朔羅はその言葉を、ずっと父が自分を守るために言ったのだと思っていた。
本当は、生きていた母を二度と起こさないための合図だった。