連名契約の空白

桐生理世は、恋人の部屋へ歯ブラシを置いた翌日から、少しずつ見えなくなった。

まず宅配業者が荷物を渡してくれなくなり、次に隣人が挨拶を返さなくなった。三日目には、洗面所の鏡に恋人しか映らなかった。

恋人は「大家に同棲がばれると面倒だから」と、契約書にも表札にも理世の名を載せていない。

〈二条契約所〉の二条壱成は、胸ポケットへ黒と赤、二本の万年筆を差していた。相談を聞くと、申込書の空欄を指す。

「連名でお願いします」

「彼は仕事で来られません」

「名前の話です」

壱成は部屋へ入り、赤い万年筆で空中へ理世の名を書いた。文字は一瞬光り、すぐ壁へ吸われる。

「この物件は、契約にない同居人を家具として扱います。長く住むほど、意見、声、最後に姿が備品になります」

「名前を足せば戻りますか」

「双方が署名すれば」

理世は恋人へ電話した。事情を説明しても、「大げさだ」「今の家賃で二人住めるんだから得だろう」と笑われた。署名は、更新のとき考えると言う。

「それまで効くお守りはありませんか」

「あります」

壱成は黒い万年筆を差し出した。

「退去届です」

理世は腹を立てた。別れたいわけではない。ただ、一緒に暮らしたいだけだ。

「不動産屋なら、住める方法を考えてください」

「考えています。あなたが住人として住める方法を」

壱成は、鏡の前へ二脚の椅子を置いた。一脚に恋人、もう一脚に理世の名前札を置く。恋人の札は鏡に映り、理世の札は映らない。

「家賃を折半し、家事もする。けれど契約上はいない。あなたが困ったとき、この部屋は彼の言い分だけを住人の声として聞きます」

言い方は厳しい。だが壱成は、理世の荷物を一つずつ箱へ詰め、見えなくなりかけた化粧品にも赤い字で名前を書いた。最後の箱まで運び出すと、鏡に理世の輪郭が戻った。

事務所で、壱成は一人暮らし用の部屋を提示した。初期費用は、怪異による契約不備として元の管理会社へ請求するという。

理世は申込書へ署名した。壱成が二本の万年筆を並べる。

「一人なのに、連名ですか」

「二か所あります」

一つは『入居申込者』、もう一つは『意思確認者』。どちらにも理世は自分の名を書いた。

壱成は赤い筆で二つの署名を結ぶ。

「連名でお願いします。誰かと暮らす前に、自分の名前と自分の意思を同居させてください」