鏡のない肖像画
メルタは鏡が苦手だった。
火傷痕を隠したいのではない。鏡の前で「もっと笑え」と何度も顔を作らされた昔を思い出すからだ。
魔王ヴェルザークの肖像室には、鏡が一枚もなかった。
「画家は姿勢を見るために必要だと申していました」と侍従が言う。
「メルタには不要だ」
大陸最強の魔王は、兵士の傷には眉一つ動かさない。だがメルタが光沢のある銀盆まで避けることを覚え、食器も曇り加工へ替えていた。
二人の肖像画を描く日、宮廷画家がメルタの顎へ手を伸ばした。
「もう少し陛下のほうへ」
ヴェルザークの視線が鋭くなる。
「触れるな。言葉で頼め」
メルタは自分で立ち位置を変えた。魔王は近づきすぎず、彼女が選んだ一歩分の距離を守る。
絵が完成すると、宰相は満足げに言った。
「今夜、全都へ公開いたします。お二人の結びつきを示す最高の一枚です」
メルタは絵を見た。画家は傷も、無理な笑顔も描かなかった。とても美しい。それでも、何万人もの視線に晒されたいとは思わない。
「公開しないでください」
宰相が顔をしかめる。
「陛下の隣に描かれる名誉を、隠すおつもりですか」
「私の顔を、政治に使われたくありません」
ヴェルザークは絵の前へ立った。
「公開は中止だ」
「すでに広場へ幕を用意しております」
「片づけろ」
「民は魔妃のお姿を待っています」
「魔妃ではない。メルタだ」
宰相が声を落とした。
「陛下が命じれば、彼女も受け入れましょう。これほど特別に扱っておられるのですから」
魔王の周囲で、空間が歪んだ。
「特別に扱うとは、命令を聞かせることではない。命令しないことだ」
ヴェルザークは絵に黒布を掛けた。ただし鍵はメルタへ渡す。
「処分するか、部屋へ置くか、いつか公開するか。好きに決めろ」
「あなたは見たいですか」
「見たい。だが、それもおまえの許可があるときだけだ」
夜の広場で、宰相は肖像公開の中止を告げた。
代わりに魔王の布告が読み上げられる。
「メルタの姿は、彼女自身のものだ。余の隣にいるという理由で、誰にも見る権利は生じない」