鏡の中では映えなくていい

美容室「うつろ」は、予約をすると鏡を布で隠される。

玲奈の前に立った美容師は、銀色の薄布を顔の半分に垂らし、ひびの入った手鏡を腰から提げていた。

「鏡を見るな」

鏡のあやかし、透玻は、客が自分の顔を気にするほど機嫌を悪くする。人間は映ったものより、他人に見せる画像ばかり信じるから嫌いだという。

玲奈はスマートフォンで、保存した写真を十枚見せた。

同い年の友人たち。海外旅行、結婚式、昇進祝い、朝から整った食卓。画面を閉じると、自分だけ背景のない場所にいる気がした。

「この人たちみたいに見える髪にしてください」

「鏡を見るな」

「写真です」

「薄い鏡だ。しかも都合のいい瞬間しか映らない」

透玻はスマートフォンを伏せ、玲奈の髪を梳き始めた。ひび割れた手鏡が腰で小さく鳴る。

「今週、撮らなかったものを言え」

「ありません」

「人間は、ないと言うときほど隠している」

玲奈は渋々思い返した。

終電で帰った夜、コンビニの店員が温かいお茶に替えてくれた。後輩の資料を一緒に直した。枯れかけた観葉植物に新しい芽が出た。どれも写真にはしていない。

「映えないですね」

「映えなくて困ったか」

「誰にも分からないから」

「お前には分かっている」

透玻は前髪をほんの少し切り、耳元を整えただけで鋏を置いた。大きく変えてほしかった玲奈は拍子抜けした。

「完成?」

「顔を変えれば、比較する相手が増えるだけだ」

会計のあと、透玻は布を一枚ずつ外した。初めて鏡に映った玲奈は、劇的には変わっていない。ただ、視界を塞いでいた髪がなくなり、目がまっすぐ見えた。

「鏡を見るな、では?」

透玻は腰の手鏡を外し、玲奈の手へ置いた。ひびの一本が、彼女の頬を二つに分ける。

「いつもはな」

「今日は?」

「今日は、自分を見ろ」

玲奈が顔を上げると、透玻自身は鏡に映っていなかった。

それでも彼は、銀色の薄布の奥で目を細めた。

「他人の鏡ばかり覗いて、お前を留守にするな」

店を出た玲奈は、写真を一枚も撮らなかった。

代わりに、帰ったら新芽へ水をやろうと思った。