鏡の前の二分
生田恵理が駅の化粧室で口紅をしまおうとすると、隣の女性が「その色、貸してもらえませんか」と言った。
見知らぬ人と直接触れる化粧品を共有するのはためらう。恵理が黙ると、女性はティッシュで表面を拭く仕草をした。
「今から会社の聞き取りなんです。泣いた顔のまま戻りたくなくて」
物流倉庫の夜勤で、上司の言動について事情を聞かれるらしい。女性の目元は赤かったが、声は乾いていた。
「化粧で強く見せなくても、話の内容は変わらないでしょう」
「強く見せたいんじゃなくて、自分の顔を自分で決めたいんです」
恵理は化粧が嫌いだった。営業部で「血色も仕事のうち」と言われ、仕方なく買った赤茶色の一本を鞄に入れている。女性にとっては選択でも、恵理には命令の跡だった。同じ口紅を、同じ意味では使えない。
それでも恵理はキャップを外し、表面をティッシュで薄く削った。さらにアルコール綿で容器を拭き、使い捨ての綿棒へ色を取った。女性は鏡へ近づき、一度だけ唇をなぞる。
聞き取りは午前零時からだった。昼勤の管理職が帰る前に済ませるため、女性だけが夜まで待たされたという。恵理はその段取りにも腹が立ったが、「ひどいですね」と言う代わりに、女性のシャツの襟が折れているのを指で示した。女性は襟を直し、恵理の頬についたマスカラの粉をティッシュで示した。輪郭を整える手は、まだ少し震えていた。
「ありがとうございます」
返された口紅を、恵理はすぐにはしまわなかった。今夜、自分も残業時間の修正を申請するため、総務へ戻るところだった。いつもなら駅で化粧を落としてから会社へ戻る。
女性が鏡の前を空けた。恵理はそこへ立ち、同じ色を自分の唇へ引いた。
「私は、これで強くなるとは思ってません」
「私もです」
二人はそれ以上、理由を説明しなかった。女性は東口、恵理は西口へ向かう。化粧室を出る直前、一本の口紅のキャップが二度鳴った。
一度目と二度目では、誰のための色かが違っていた。