鏡の白い輪

浴室の鏡には、白い輪がいくつも重なっていた。

余命を知らされた日の帰宅後、白石和葉はそこへキッチンペーパーを貼った。

鏡は水垢で白く曇り、顔を近づけても輪郭しか映らない。朝は眼鏡を外して使うので、ずっと気にしていなかった。曇り止めの跡だけ四角く薄く、周囲に大小の輪が重なっている。けれど病院の洗面所で、明るすぎる鏡に自分の顔を見たあと、この白い曇りをそのままにしておくのが嫌になった。

余命は年内かもしれない、と医師は言った。今日は九月の終わりだった。帰りの電車で和葉は、三か月という数え方をしなかった。浴室用洗剤を買う、という一つだけをメモした。

近所の店には専用品がなく、クエン酸の粉を買った。袋の裏を読み、水二百ミリリットルに小さじ一を溶かす。計量スプーンが見当たらず、紅茶用の匙を洗って代わりにした。スプレーボトルは霧が斜めに出た。

鏡へ吹きかけ、キッチンペーパーを貼る。上からもう一度濡らし、乾かないよう食品用ラップで覆った。白い鏡が、今度は透明な膜で光った。

十分待つ。

和葉は浴室の床へ座らず、洗面所の椅子に腰かけた。母から着信があったが、出なかった。今朝「終わったら連絡して」と言われている。鏡を終わらせたら、かけるつもりだった。

時計の秒針を百まで数え、途中で分からなくなった。ラップの下では何も起きていないように見える。もう少し置く。

十五分後、スマートフォンのタイマーが鳴った。和葉は母からの着信表示を閉じ、ラップと紙を剥がした。スポンジで円を描くと、白い輪が乳白色の筋になって動いた。水をかけても、上の角だけ残る。和葉は椅子を持ち込み、一段だけ乗った。

腕を伸ばし、角をこする。息が浅くなったので、三回ごとに手を下ろした。白い点が一つ、また一つ消えていく。

水滴が新しい輪になる前に、最後は乾いた布で全面を拭く。鏡の中へ、浴室の白い扉、青いタオル、椅子の脚が戻った。和葉は自分の顔ではなく、右上に残った小さな輪を探した。

布を一度だけ往復させる。輪の下から、まっすぐなタイルの目地が現れた。