閉架書庫の百年
図書館の閉架書庫には、一本だけ誰も使わない通路があった。
そこでは外で一分たつ間に、紙の上だけ一年が過ぎる。
新しい本を置けば黄ばみ、鉛筆の字は薄れ、古い新聞は指で触れる前に崩れた。
司書はその通路を封鎖していた。
ところが、亡くなった常連客の家族から電話が来た。
「父が毎週読んでいた本を知りませんか。最後に何を考えていたのか、少しでも分かれば」
常連客は、借りられない郷土史をいつも閉架で読んでいた。
返却棚を探すと、その本が問題の通路へ滑り込んでいた。
すでに表紙は何十年分も色あせている。
司書は手袋をはめ、通路へ入った。
一歩進むごとにページの縁が茶色くなる。
本の余白には、常連客の鉛筆書きがあった。
「この橋で妻に会った」
「娘が初めて歩いた道」
「孫にはまだ教えていない」
外の時計で一分、文字には一年。
司書は急いで書き写した。
だが最後のページへ行く前に、前の文字が消え始めた。
古い人の思い出から順に薄くなり、橋も、道も、家族の名前も紙へ溶けていく。
最後の余白には、震えた字で一行だけあった。
「忘れる前に、誰かへ話す」
司書はその一文だけを書き取れなかった。
紙が崩れるのを止めようとして、手で覆ってしまったからだ。
指をどけたとき、本は細かな粉になっていた。
家族へ渡せたのは、急いで写した断片だけだった。
司書は謝った。
けれど娘は、橋の名前を見て声を上げた。
「父が母と会った場所です。私たち、知りませんでした」
週末、家族は孫たちを連れて橋へ行った。
戻ってくると、今度は自分たちの記憶を書いた紙を図書館へ預けた。
妻の笑い方、父の口癖、孫へ教えたかった道。
司書はそれを閉架へ置かなかった。
閲覧室の中央に「町の記憶」という箱を作り、誰でも読めるようにした。
読む人が増えるたび、紙は少し傷んだ。
しかし閉じ込めて百年分古びるより、誰かの声で何度も新しくなる方がよかった。
封鎖した通路の扉には、あの一文を司書の字で書いた。
「忘れる前に、誰かへ話す」
元の文字とは違う。
それでも意味だけは、紙の寿命より長く残った。