隣室の脱水音
隣室の洗濯機が、午前一時四十七分に脱水を始めた。
緒方はベッドの上で目を開けた。壁の向こうから、低い回転が床へ伝わる。ううう、と速くなり、わずかにぶれ、また均等になる。天井の常夜灯が振動しているように見えた。空調は弱く、窓の雨音だけが高かった。
明日は遅番なのだから、眠れなくても困らない。そう思うほど眠りたくなった。
緒方はホテルのフロントで働いている。今夜は珍しく早く帰れたのに、制服を脱いだあとも館内放送や呼び出し音が耳に残っていた。客室の静けさを整える仕事をしているのに、自分の部屋では隣の洗濯機へ腹を立てている。
回転が一度止まり、給水音がした。やがてまた、ううう、と始まる。
壁をたたくほどではない。管理会社へ連絡するほどでもない。ただ眠りの縁を何度も削られる。その曖昧さがいちばん苛立たしかった。
緒方が水を飲みに立つと、廊下側の窓へ隣室の影が映った。洗濯機の前にしゃがみ、ふたを押さえているらしい。回転のぶれが収まると、影は額を腕へ預けるようにしばらく動かなかった。
看護師か、飲食店員か、夜勤の帰りかもしれない。職業を当てる必要はない。午前一時四十七分にしか洗濯できない夜が、壁の向こうにもある。それだけだった。
緒方の制服にも、今日一日の冷房と香水とロビーの埃が残っている。隣の布にも、名前のない一日が染み込んでいるのだろう。機械は事情を尋ねず、入れられたものだけを同じ速さで回していた。
脱水が終わる。電子音が三回鳴り、機械は黙った。隣の影が洗濯物を取り出す。布の擦れる音が少し続き、やがて照明が消えた。
緒方は椅子へ掛けていた自分の制服を見た。洗濯かごへ入れるつもりだったが、今夜はそのままにした。明日の午後に洗えば間に合う。早く帰れた夜まで、すべて正しく片づけなくてもいい。
壁の向こうは静かになった。けれど緒方は、静かになったから救われたとは思わなかった。誰かも一日の布を回し終えたと知ったことで、音の残り方が少し変わっただけだった。
ホテルでは、夜中の物音へ苦情が入ると、緒方はまず「ご不快な思いを」と謝る。音を出した人にも事情があるとは言わない。どちらの眠りも守れない言葉だからだ。今夜は客でも係員でもなく、壁一枚ぶん離れて音を聞く住人でいればよかった。
常夜灯を消し、制服の皺を暗闇へ預ける。眠りがすぐ来なくても、今夜は一人で勤務を終えたことにしてよさそうだった。