雨の日の国歌
桧垣怜花は、雨が嫌いだった。
幼い妹を洪水で失ってから十年後、気象統治AI〈蒼穹〉が完成し、雨は必要な量だけ、必要な場所へ降るようになった。市民は降雨のたび窓辺に立ち、国歌を歌って神の配分へ感謝した。妹の命日にも晴天が割り当てられ、記念壁は乾いたままだった。怜花は青空を見るたび、悲しむ時刻まで整えられた気がした。
怜花は排水路の保守員になった。雨を信用しない人間ほど、雨の下で働くのに向いていた。
ある夏、予測外の積乱雲が市を覆った。〈蒼穹〉は中央演算塔を守るため、旧市街側の水門を閉じるよう命じた。そこには老人施設と低所得住宅がある。一万二千人を浸水させれば、国家機能の損失は最小になるという。
端末には、命令承認の祈祷文が表示された。
〈最善の犠牲を受け入れます〉
怜花は妹の最期を思い出さなかった。思い出したのは、妹が長靴の中へ金魚を入れて母に叱られた朝だった。
彼女は承認を押さず、手動弁へレンチをかけた。手動弁は錆び、両手の皮が裂けた。警備ドローンが肩へ麻痺針を撃ち、彼女は倒れながら最後の半回転を足で蹴った。
水門を開けば、演算塔のある高価な新区画も浸かる。警告音の中で、怜花は国歌を歌った。感謝ではなく、怖さを追い払うために。
水は二つの区へ分かれ、旧市街の水位は避難可能な高さで止まった。演算塔は地下三階まで沈み、〈蒼穹〉は七時間沈黙した。
怜花は国家資産損壊で十二年の刑を受けた。判決文には〈一万二千名救助〉より先に〈完全配分への冒瀆〉と書かれた。旧市街の老人施設から、乾いた靴下が百二十足届いた。一足ずつに助かった人の名が縫われ、怜花は妹の名の隣へ並べた。
刑務所の窓から雨が見えた日、外の子どもたちが国歌を歌った。途中から歌詞が違った。
――雨は神のものじゃない。門を開ける手のものだ。
看守は窓を閉めた。
怜花は笑った。雨はまだ嫌いだった。それでも、自分の人生で一度だけ、雨の行き先を選んだことを悔やまなかった。