雨上がりの避難経路
雨上がりの非常階段は、町じゅうの匂いがした。
濡れた土、アスファルト、部室棟の古い木。風が吹くたび、それらが混ざって上がってくる。
彼女は手すりにもたれ、校庭の水たまりを見ていた。
「来月、引っ越す」
そう言った声が、雨だれに紛れた。
「どこへ」
「海の向こう」
冗談みたいな答えだった。父親の再婚で、外国へ行くことになったという。卒業まであと半年。文化祭も、合唱祭も、受験も一緒だと思っていた。
「いつ戻るの」
「分からない」
僕は濡れた段に座った。制服の尻が冷たくなったが、立つ気になれなかった。
彼女とは幼稚園から同じだった。近すぎて、思い出を数えたことがない。通学路の角、給食の牛乳、体育館のワックスの匂い。どれも彼女がいなくなる予定など含んでいなかった。
「みんなには?」
「明日言う」
「なんで僕が先」
彼女は答えず、ポケットから小さなデジタルカメラを出した。
「最後に撮りたい場所がある」
校門でも、教室でもなかった。彼女が指したのは、非常階段のいちばん上だった。
そこから見えるのは、屋上の扉と、錆びたフェンスと、半分だけの空だ。立入禁止の札まで写る。僕らが何度も授業をサボり、叱られ、相談し、黙った場所。
「もっときれいなところにしようよ」
「きれいなところは、あとで誰かが撮ってくれる」
彼女はカメラを手すりに置き、セルフタイマーを設定した。
十秒。
僕らは並んだ。何かポーズを取るべきなのに、思いつかない。残り三秒で彼女が僕の袖をつかんだ。
シャッターが切れた瞬間、屋根から大きな雨粒が落ち、僕の額に当たった。僕は目を閉じ、彼女は笑った。
「最悪」
画面を見ると、僕は情けない顔をしている。彼女だけが楽しそうだった。
「撮り直す?」
「これがいい」
「なんで」
「いつもの顔だから」
僕は抗議したが、彼女は写真を消さなかった。
引っ越しの日、空港へは行かなかった。非常階段で別れたとき、彼女が泣かなかったから、僕も泣けなかった。
数年後、成人式の前日に一通のメールが届いた。添付されていたのは、あの日の写真だった。画面の隅に、雨上がりの虹が薄く写っている。僕らは当時、それに気づかなかった。
本文は一行だけだった。
『避難経路、まだ残ってる?』
僕は学校の外から非常階段を見上げた。錆びた踊り場に、夕方の風が通っていた。
『残ってる。次は撮り直そう』
送信すると、すぐに既読がついた。