雨傘と共同保証
雨粒を落とす紺色の傘が、応接机に横たわっていた。
「名前だけ貸して。実際に払うことなんてないから」
妹婿の片桐が、地域バス会社の共同保証契約を差し出す。
水城冬花は、その言葉を一度聞いている。前回、父から継いだ《みなと交通》を守るため、赤字の観光子会社へ融資を通そうと署名した。ところが片桐は融資金を別会社へ移し、子会社を計画倒産させた。共同保証で本体の車両まで差し押さえられ、通学路を走る最後のバスは冬花の目の前で鍵を抜かれた。
その鍵を返却した夜から、彼女は契約日の雨の午後へ戻った。
壁には、小学生が描いた黄色いバスの絵が貼られている。車がない山間部では、一本の路線が通学も通院も買い物も背負う。片桐が欲しがっているのは会社名だけではない。町の足そのものだった。
片桐が傘の柄をこちらへ向ける。
「姉さんの会社は担保がある。名前だけでいい」
冬花は契約書を閉じた。
「貸さない」
「路線を守りたいんだろ? 観光事業が伸びれば――」
「だから貸さない。これは融資じゃない。うちの路線免許と車庫を担保にした持ち出し契約よ」
冬花は取締役会議事録を机へ置く。前回は片桐に任せて白紙だったページに、今回は反対理由と担保禁止を記載し、先に全役員の署名を集めてある。
片桐の顔が歪む。
「いつの間にそんな準備を」
「今朝、傘を見たときに思い出したの」
もちろん本当のことは言えない。代わりに、観光子会社の口座明細を示した。融資実行前なのに、片桐の会社へ「成功報酬」が予約されている。
冬花は契約を拒否し、銀行へ不正疑義を通知した。
午後四時。前の人生では、共同保証の成立通知が届いた時刻。スマートフォンに現れたのは、県の交通政策課からのメールだった。
『生活路線維持補助金、交付決定』
外でエンジン音がする。高校生を乗せた最終便が、雨を切って車庫へ戻ってきた。
運転手が窓を開け、初めてこう叫んだ。
「社長、明日の一番便も、いつもどおりでいいんですよね?」
冬花は紺色の傘を開かず、雨の中で大きくうなずいた。