雨宿り百年
冬城澪の傘修理店では、午後二時十三分に雨が降り始める。町の気象管理AIが落雷経路を決めきれず、四十七分を巻き戻しているらしかった。
三時ちょうど、雷が鳴る。すると店の時計が二時十三分へ戻る。
最初の一年、澪は得をした。客が落とす財布を先に拾い、商店街の抽選番号を当て、告白される言葉まで予習した。だが三時になると、財布も金も恋人も消えた。
十年目には、町のすべてを知っていた。豆腐屋は二時二十一分に妻へ嘘をつき、郵便配達員は二時三十四分に橋で煙草を吸う。少女は二時四十分に迷子になり、老人は二時五十二分に転ぶ。
澪は誰にも知られない世話を始めた。少女の母へ近道を教え、老人の前に椅子を出し、配達員の煙草へ雨がかかるよう庇を動かした。感謝されても、三時には消える。澪は百年のあいだ、誰にも積み重ならない親切を続け、自分の心だけが摩耗していく音を聞いた。
百年目、店へ一本の黒い傘を持つ男が入った。
男は毎回、同じ骨の折れ方を見せ、亡くなった妻の話をした。妻は雨が好きで、二人はこの傘で五十年歩いた。修理できるかと尋ねる。
澪は毎回直した。三時になると傘はまた折れ、男は妻を初めて語る顔に戻った。
ある日、澪は針を置いた。
「その話、もう千回聞きました」
男は怒ると思った。ところが、静かに笑った。
「じゃあ、妻は千回ここに来たんですね」
「あなたは忘れるのに」
「あなたが覚えてる」
その言葉で、澪は泣いた。百年分の善意も退屈も、誰にも存在しないと思っていた。だが一人が一度信じただけで、時間は確かに重さを持った。
三時、雷が鳴った。
時計の針は一秒進んだ。
雨は夕方まで降り続いた。男は直った傘を開き、店を出た。翌日、彼は澪を覚えていなかったが、黒い傘には新しい糸が残っていた。
澪は店を閉め、旅に出た。百年ぶりに知らない雨を見たかった。
駅前で傘を忘れた旅人に、自分の傘を渡した。礼を言われたが、名前は告げなかった。
忘れられても、したことが無くなるわけではない。雨粒が地面へ消えても、町のどこかを濡らしているように。