雨粒のヴィンテージ
綴喜野透佳は、雨よけのジャケットを着たまま高級ワイン店へ入った。
手にはラベルのない一本。ソムリエの瀬名木祐馬へ、状態を見てほしいと頼んだ。
「持ち込み鑑定はしていません」
「香りだけでも」
「当店の試飲は、購入実績のあるお客様に限ります。コンビニのワインを持って来られても困ります」
透佳が瓶底の刻印を示しても、瀬名木は見なかった。若い販売員だけが、布で雨粒を拭き、適温の保管箱を用意した。
透佳は一本を預け、販売員の名前を聞いて帰った。
翌夜、店では伝説的ヴィンテージの世界同時発売会が開かれた。瀬名木は招待客へ、醸造家と長年親交があると語っていた。
発表映像に映った醸造家は透佳だった。
綴喜野家は葡萄畑、醸造所、輸入会社を持つワイングループの創業家。透佳は現社長兼醸造責任者で、ラベルのない一本は発売前の最終確認用だった。雨の畑から直行したため、ジャケットも長靴も作業用だった。毎年、収穫日は社長も同じ服で畑へ入る。
店の親会社も綴喜野グループが保有している。
瀬名木は顔色を変えた。
「試作品とは知らず、正規流通品以外を慎重に扱っただけです」
透佳は預けた瓶を受け取った。若い販売員の保管で、温度もコルクも完璧だった。
監査担当が別の瓶を机へ置く。瀬名木が富裕客へ“希少品”として販売したものだ。瓶底の刻印は存在せず、ラベルはコピー。瀬名木は査定せず委託品を受け入れ、高額販売していた。
「ラベルを見る人より、葡萄を見る人が必要です」
透佳は若い販売員を本社の醸造研修へスカウトし、将来の店舗責任者候補に指名した。
瀬名木のソムリエ章が外され、販売資格も調査終了まで停止された。
透佳がラベルのない瓶を開ける。香りを確認した若い販売員が、畑の雨と熟した果実を正確に言い当てた。
世界発売の契約ボタンが押され、予約本数が完売へ変わった瞬間、コンビニ品と笑われた一本は最高額のヴィンテージとなり、瀬名木の肩書だけが偽物として棚から下ろされた。