雲上教室の窓
「授業中は席を立たないでください」
雲上学院の担任パルミラ・ソーンは、翼を持つ生徒たちに毎朝そう言った。空の民は窓から飛び出す癖がある。彼女は出欠を取り、風で散る紙を文鎮で押さえ、羽根の抜け替わり時期には教室中を箒で掃いた。背中に翼のない地上人教師は、空では鈍いと笑われていた。
その日、窓際の少女イオは落とした筆を拾おうとして、雲の下に巨大な目を見た。
天喰い鯨が学院の真下を浮上していた。島ほどの口を開き、校舎ごと飲み込もうとしている。警報はまだ鳴らない。怪物は音を食べながら近づいていた。
パルミラは板書をやめた。
「少し自習を」
彼女は窓辺へ行き、黒板消しを外へ落とした。
小さな直方体は雲へ沈む途中で一筋の金光になった。光は鯨の額から尾までを通り抜け、巨体を左右に分ける。二つの影は声も血もなく霧へ変わり、学院を包む雲に溶けた。かつて空の魔王を墜とした聖剣投擲。生徒たちには、先生が黒板消しを落としたようにしか見えなかった。
イオだけが立ち上がって窓の下を見ていた。雲の中で、金色の剣が黒板消しへ戻り、上向きの風に乗ってパルミラの手へ収まる瞬間まで。
天喰い鯨が霧になったことで、乾きかけていた貯水雲は少し厚くなった。パルミラは敵の残骸さえ、島の雨へ変えてしまったらしい。イオは英雄譚の「黄金翼の勇者」を思い出したが、教師の背にはやはり翼がない。必要なときだけ空そのものを翼にするのだろう。少女は秘密を胸にしまい、窓辺の文鎮をそっと奥へ寄せた。
教師は窓枠についた霧を布で拭き、散った白墨を払った。空の裂け目を指でなぞると雲が閉じる。何事もなかったように教卓へ戻り、板書の続きを始めた。
「先生、今のは……」
イオが声を震わせる。
パルミラは黒板に背を向けたまま答えた。
「落とし物を拾っただけです。あなたも座りなさい」
少女は急いで椅子へ戻った。教室の下には、もう青空しかない。
先生は出席簿を開き、最初と同じ言葉を告げた。
「授業中は席を立たないでください」