霧の宿の海
甲斐谷素乃は、海を見るために岬の宿を予約した。
写真では、部屋の窓いっぱいに青い水平線が広がっていた。
ところが到着した日は濃い霧で、硝子の向こうは白い壁のようだった。
「この辺り、朝はいつも霧なんです」
宿の女将が言った。
「午後には晴れますよ」
素乃はそれを信じ、窓辺で待った。
けれど夕方になっても海は見えなかった。
仕事の企画審査に落ちた翌日だった。
自分の案を「視界が悪い」と評されたことまで思い出し、素乃は白い窓を見て苦笑した。
夕食の焼き魚も、せっかくの景色も、何だか申し訳なく感じる。
夜、女将の孫だという少女が廊下で声をかけた。
「海、見えなかったでしょう」
「朝はいつも霧なんだって」
「今日は特別。昨日は晴れてた」
女将の嘘はすぐばれた。
少女は「海を見る秘密の場所」を教えると言い、素乃を宿の裏へ連れた。
細い石段を下りると、霧の中から波の音が大きくなった。海そのものは見えない。
代わりに濡れた岩、潮の匂い、波が引くたび転がる小石の音が近かった。
「見えないけど」
「見える日より、音が大きい」
少女は得意そうだった。
二人で岩陰へ座り、女将が持たせた温かな生姜湯を飲んだ。
湯気に蜂蜜の甘さがあり、潮風で冷えた指がほどける。
「おばあちゃん、がっかりさせたくなくて嘘つくんです」
「知ってるって言わない方がいい?」
「秘密にして。明日も晴れるって言うから」
二人は笑った。
翌朝、霧は残っていた。
女将は「昼にはきっと」と言い、素乃は「楽しみにしています」と答えた。
互いに少しだけ下手な芝居だった。
帰る直前、風が吹き、白い霧が数分だけ割れた。
青ではなく、銀色の海が見えた。
素乃は写真を撮らなかった。
見えなかった時間の方を、もう忘れたくなかったからだ。
宿を出ると、女将が生姜飴を一袋くれた。
「次は晴れた日に」
「霧の日でも来ます」
素乃が言うと、女将は少し安心した顔をした。
鞄には潮と蜂蜜の香りが移っていた。
見通しの悪い旅は、何も見えない旅ではない。
女将の優しい嘘と少女の秘密の石段が、白い一日へ、音と温度のある海を残してくれた。