高菜のしみ

雨谷紫は、美容室のスタッフルームで退職届を三度書き直した。

一枚目は日付を間違え、二枚目は店名の漢字がにじんだ。三枚目だけが、白く整っている。

来月、別の店へ移る。講習費を給料から引かれ、閉店後の練習時間も勤務に数えられない今の店を、もう続けられなかった。ただ、紫を一から教えた先輩には、まだ言えていない。先輩は自分も残業代をもらえないのに、毎晩最後まで練習を見てくれた。辞めることが、教わった時間まで否定するように思えた。

先輩は紫の手が荒れれば薬を分け、試験前には閉店後も鋏の角度を見てくれた。一方で、給与明細の不足を尋ねると「今は修業だから」と目をそらした。恩と不当さが同じ人の中にあることを、紫はうまく整理できない。好きな人から離れるには、その人を全部嫌いにならなければならないと思っていた。先輩のやさしさだけを持って、店を出てもよいはずだった。

午前零時、先輩は先に帰った。机には高菜のおにぎりが一つ置かれ、袋に〈書き終わったら食べな〉とある。退職届を書いていることまで、気づかれていたらしい。

紫が包みを開くと、炒めた高菜の匂いが立った。まだ少し温かい米をかじると、細かい葉が歯に触れた。

二口目で、おにぎりの脇から高菜がこぼれた。油を含んだ一片が、整えた退職届の端へ落ち、薄い緑のしみを作った。

紫は反射的に紙を持ち上げた。四枚目を書けば、またきれいにできる。迷惑をかけず、感情を見せず、最後まで感じのよい後輩でいられる。

けれど、しみのついた場所を指でこすると、色はかえって広がった。

紫はおにぎりを最後まで食べた。退職届は書き直さず、しみの下へ一行だけ添えた。

〈教わったことまで辞めるわけではありません〉

先輩のロッカーへ、退職届と空の包みを一緒に入れる。お礼の菓子も、長い手紙も用意しなかった。

白く終われなかった紙を見て、紫は初めて、自分の退職が誰かへの裏切りではなく、自分の生活についた色だと思えた。ロッカーの扉を閉め、店の鍵を定位置へ戻した。