黄色い米の中心

矢島誉は、父の洋食店の閉店後、失敗したパエリアを一人で食べた。

新メニュー候補として父が初めて作ったものだった。サフランの香りは店の奥まで届いているのに、鍋の中央だけ米に芯が残っている。噛むたび硬い粒が歯へ当たり、鉄の取っ手は布越しでも熱かった。

父はカウンターの内側に立ち、味の感想を待っている。自分では食べない。試食は、いずれ店を継ぐ誉の役目だと思っているからだ。

誉の鞄には、写真事務所の採用通知が入っている。給料は今より低く、最初の一年は助手扱い。それでも、料理を撮る側で働きたいと思った。

父が腰を痛めてから、誉は会社を辞めて店へ入った。二年だけ手伝う約束が、四年になった。常連客は若女将と呼び、取引先は「娘さんがいるから安心」と言う。父も、新しい看板の名義を誉へ変える話を始めている。求人を出そうと提案すると、人を育てるよりお前に教えるほうが早い、と笑った。

誉は閉店後に料理写真を撮り、休みの日だけ講座へ通った。採用された事務所の代表は、店を継がない覚悟ができたら来てほしいと言った。通知を受け取ってから一週間、誉は父の新メニューを黙って試食し続けた。

嫌いな店ではない。父の料理も、客の顔も好きだった。母の葬儀のあと、厨房に立つ父を一人にしたくなかったのも本当だ。だからこそ、継げないという一言が、店も父も嫌っていると聞こえそうで言えなかった。四年手伝ったことで、かえって継ぐ約束をしたようになっていた。

誉は鍋の外側ではなく、芯の残った中央からスプーンを入れた。硬い米を何度も噛む。父が「そこは失敗だ」と止めたが、誉はもう一口食べた。

柔らかい外側は手をつけず、中央だけを円く食べ進める。鍋の真ん中に、小さな空白ができた。

「端はうまくできてる」

誉が言うと、父は黙ってうなずいた。

「でも、真ん中を私にするのは違う」

採用通知を畳まず、空いた中央へ置いた。熱で紙が曲がらないよう、下には鍋敷きを挟んだ。

父は通知を読み、柔らかい米の残った外周を見た。誉が全部食べきらなかったのは初めてだった。店の試食は、残さないことまで仕事に含まれていた。

誉は硬い米を最後に一粒だけ皿へ残した。父はそれを捨てず、小さな保存容器へ移した。

「次は水を増やす」

それがパエリアの話だけではない気がして、誉は店のエプロンを初めて自分から外した。父は外周の柔らかい米を、明日の賄い用に一人分だけ取り分ける。誉の分まで二つにしなかった。

店を出る前、誉は残した一粒を撮った。失敗を告発する写真ではなく、真ん中に自分がいなくても料理は作り直せると、後で思い出すための一枚だった。