黒い輪は血のあと
画家の鹿取がアトリエで刺殺された。机には二つの珈琲カップがあり、白い大ぶりの物に弟子の有働、黒い小ぶりの物に画商の喜多見の名札が添えられていた。第一発見者の喜多見は「有働が口論して出た直後に入ると、先生は倒れていた」と証言した。
容疑者は有働、妻の折原、喜多見の三人。有働は破門を言い渡され、折原は離婚協議中、喜多見は贋作取引を鹿取に暴かれかけていた。有働は自分の白いカップが遺体のすぐ横にあるため疑われ、激しく否定した。折原と有働は六時前に退室し、喜多見だけがその後のアトリエへ入った。
刑事の鬼塚は机上の染みを紙へ写した。
「ここには三つの手掛かりしかありません」
一つ目。血の飛沫の下に、黒い小さな円形の珈琲跡がある。黒いカップは、出血より前に遺体のそばへ置かれていた。
二つ目。白い大きな円形跡は血の飛沫を上から切っている。白いカップは、出血した後にその位置へ置かれた。
三つ目。鹿取の腕時計は転倒を六時十二分に記録し、電子錠の履歴では、その時刻以後に入室したのは喜多見だけだった。
有働は「白いカップは窓際へ置いて帰った」と主張し、折原はどちらの席順も覚えていなかった。鬼塚は記憶の争いを捨て、乾いた輪と血の上下関係だけを読んだ。
喜多見は名札を指した。
「名札を取り違えただけでは?」
「輪の直径は、器の底と一致しています。名前ではなく形が順番を語る」
鬼塚は黒いカップを元の小さな輪へ重ねた。
「殺害時に遺体のそばにあったのは、血の下へ輪を残したあなたの黒いカップです。出血後、あなたはそれを遠ざけ、有働さんの白いカップを血の上へ置いて、直前まで彼がいたように見せた。黒い輪が血より古い、白い輪が血より新しい、六時十二分以後に入れたのはあなた一人。この三点で、カップを入れ替えた人物は決まります」鬼塚が告げると、喜多見は黒い取っ手から手を離した。その指先には、まだ絵具ではない赤が残っているように見えた。二つの器の場所を替えても、器が先に押した輪と、あとから落ちた血の順番までは替えられなかった。