『顧客番号ゼロ』
雨宮創士は営業部長候補の昇進面談で、一件の逆転契約を語った。
「解約寸前だった匿名顧客を、私が一時間の電話で説得しました。相手は名前も会社も明かさない難しい方でしたが、最後には年間契約を結んでくれた」
社内ではその顧客を「番号ゼロ」と呼んでいた。業務改善のために雇われた覆面調査員で、正体を知る者はいなかったという。
面接官の東雲環が、声色を変えずに尋ねた。
「どんな言葉が決め手でしたか」
「数字ではなく、人を見ます、と伝えました」
「通話は何時から?」
「十六時ちょうどです。私の直通電話からです」
東雲はCRMの履歴を映した。十六時から一時間、雨宮の直通電話は社内会議への接続中になっている。一方、番号ゼロへの発信は十六時七分、営業研修中だった森下という新人の端末から始まっていた。
雨宮は記録ミスだと言った。
「新人にダイヤルだけさせ、私が代わりました」
「では、通話メモの作成者が森下なのは?」
「私の言葉を入力させたんです」
東雲は通話メモの版履歴を開いた。初版の担当者は森下。契約成立の翌朝、雨宮が担当者欄を自分へ変更し、「数字ではなく、人を見る」という一文を追記している。
「実際に言われたのは別の言葉です」
東雲は続けた。
「『分からないことを分かったふりはしません。一度切って調べさせてください』。だから契約しました」
雨宮の目が細くなった。
「あなたが、番号ゼロ?」
「はい。社長から身分を伏せるよう命じられていました。正体を知るのは、今日まで社長と私だけです」
森下は三度も電話をかけ直し、分からない点を確かめた。雨宮からの電話は一度もなかった。翌月、森下は成績不振として契約を切られている。
東雲は面接票を閉じ、別の画面を開いた。そこには森下の退職時連絡先があった。
「営業部長への昇進は見送ります」
送信ボタンの宛先は雨宮ではなく、森下への再面接依頼になっていた。