『投書箱の鍵』

早期退職面談で、鴻上澄江は匿名投書を理由に退職を迫られていた。

〈鴻上は残業時間を水増しし、若手へ仕事を押しつけている〉

人事部長の蟹江征史は、穏やかな声で割増退職金を提示した。

「三十二年の功労を汚したくないでしょう。自主的に応じるなら、この件は公表しません」

労務監査の速水雅臣は、机上の封筒を指した。

「これは一階の匿名投書箱に入っていたそうですね」

「通報者保護のため、回収経路は答えられない」

「投書箱の鍵は誰が持っていますか」

蟹江だけだった。

速水は封筒から紙を抜き、複合機の識別点を読み取った。印刷機は人事部長室、時刻は日曜午後三時二分。その日の入館記録で本社にいたのも蟹江一人だった。

「誰かが私の部屋へ入った」

「部長室は暗証番号式です。日曜の解錠は一回、あなたの社員証です」

蟹江は、投書の内容が真実なら作成者は問題ではないと言い返した。

速水は勤怠システムを開いた。鴻上の残業は、若手が帰宅した後に発生している。押しつけたのではなく、未申請残業を肩代わりしていた。元データでは若手の作業時間だったものを、蟹江が人件費削減のため鴻上の管理職枠へ付け替えていた。

匿名投書に添付された一覧は、その付替え前後を知る者しか作れない。更新履歴には蟹江の名が残っていた。

「高給の社員を三人減らせば、あなたの年度目標が達成される」

速水が言うと、蟹江は割増退職金の封筒を閉じた。

人事担当役員は、鴻上の同意書を回収した。

「早期退職の勧奨を撤回します。鴻上さんには若手育成担当として残っていただきたい」

そして投書箱の鍵を、蟹江の前から取り上げた。

速水は若手三人の勤怠承認メールも示した。鴻上は毎回、残業を本人名義に戻すよう蟹江へ頼み、蟹江は〈予算上無理〉と拒んでいる。投書の文章には、その非公開メールと同じ〈世代交代を阻む壁〉という表現があった。蟹江が早期退職の対象者ごとに作った文面テンプレートも、人事共有庫のごみ箱から復元された。箱の鍵より先に、言葉の使い回しが持ち主を示していた。

退職面談を終えて席を失ったのは、投書を書かれた人ではなかった。