お礼の期限
鷺森瑠花の前に、細長い箱が置かれていた。
「離婚のとき助かったから」
宮坂壮馬はそう言って、腕時計を差し出した。レストランの閉店まで十五分。二人のほかに客はいない。
壮馬が家を出た夜、瑠花は会社の倉庫から段ボールを運び、空いている不動産屋を探し、三日分のシャツを貸し布団の横へ置いた。同僚として放っておけなかっただけだ。けれどその後、一緒に食べる夕食が増え、瑠花は彼を好きになった。
壮馬は感謝を数字に換えるように、食事代を払い、引っ越し費用を返し、瑠花が貸したタオルまで新品で返した。借りが減るたび、会う理由も減っていく。瑠花は安堵するふりをしながら、最後の一円が返された日に自分まで不要になるのではないかと怯えていた。礼を受け取るほど、瑠花の側にも返せない沈黙が積もった。
好きと言えないのは、壮馬の好意が感謝かもしれないからだった。孤独な時期にそばにいた人を、恋と勘違いしているだけなら、時計を受け取った瞬間に関係が清算される気がした。
「高すぎる。受け取れない」
「本当に世話になったんだ」
「引っ越し代行なら、もう何回分もごちそうになった」
「それでも足りない」
「じゃあ、いつまでお礼するの」
壮馬は答えなかった。店員がラストオーダーの伝票を回収し、照明を一段落とす。
「私と会うの、助かったから?」
腕時計の箱より重い問いだった。壮馬はふたに指を置いたまま、しばらく黙った。
「最初は、そうだった。話を聞いてもらえると救われた」
瑠花は席を立とうとした。
「今は違う。助かった、じゃなくて、会いたかった」
同じ言葉が初めて、借りを返すためではなく使われた。
「だったら、これはいらない」
瑠花は時計の箱を壮馬側へ戻した。店を出ると、駅前のコンビニも閉店準備をしていた。壮馬が袋から、いつもの安いプリンを二つ出す。離婚直後の部屋で、スプーンもなく食べた銘柄だった。
瑠花は片方を受け取り、腕時計は置いたままにした。
終電へ急がず、店先のベンチでふたを開けた。