コインランドリーの最終夜

神谷比奈乃は、引っ越し前夜のコインランドリーで、最後の洗濯物が回るのを見ていた。

ポケットには二つの金属がある。新居の鍵と、この店だけで使える古い洗濯トークンだった。

七年住んだ部屋には洗濯機置き場がなく、比奈乃は週に二度ここへ来た。雨の日も、体調の悪い日も、袋を抱えて八十歩。面倒だった。それでも深夜に同じ顔が集まり、乾燥機の熱で曇る窓を眺める時間を、嫌いではなかった。

新しい部屋には室内洗濯機置き場がある。駅も近く、浴室乾燥までついている。内見したとき、友人は「やっとちゃんとした部屋だね」と言った。

ちゃんとした、という言葉が少し引っかかった。ここで洗濯してきた七年が、仮の生活だったように聞こえたからだ。

店主が閉店作業をしながら、「引っ越すんだって?」と聞いた。比奈乃が頷くと、彼は乾燥機の忘れ物らしい片方の靴下を掲げた。

「次の部屋でも、片方はなくすよ」

慰めなのか分からず、比奈乃は笑った。

洗濯が終わる。温かいタオルを畳みながら、新居を断る選択もまだできると思った。狭い部屋に残れば、この店も、見慣れた夜道も失わない。

けれど比奈乃は、好きな場所を離れることと、その場所で過ごした時間を否定することは違うと考えた。便利さを選ぶ自分を、薄情と呼ばなくてもいい。

最後のトークンを両替機の上へ置き、裏に小さく〈一回分どうぞ〉と書いた。

乾燥機の向こうでは、いつも同じ曜日に来る女性が雑誌を読んでいた。名前は知らない。会えば会釈するだけだ。比奈乃が引っ越しても、彼女は来週また同じ席に座るだろう。深い関係ではないからこそ、失うと説明しづらいものがある。その小さな喪失も、新居の設備表には書かれていなかった。

温かい布の匂いは、新しい洗濯機でも同じかもしれない。違うのは、それを畳む場所を自分で変えたことだけだった。

新居の鍵を握ると、角が掌に当たった。比奈乃は洗濯物を抱え、八十歩の夜道を、今度は帰るためではなく別れを引き受けるために歩いた。