スープをこぼした木曜日

理央は玄関で、コンビニ袋の底が温かく濡れていることに気づいた。

ミネストローネのふたが少しずれて、赤い汁が漏れている。袋の中のパンにも、レシートにも、トマト色の染みが広がっていた。

「もう」

声にした途端、涙が出そうになった。

スープをこぼしたくらいで泣くのはおかしい。けれど今日は、朝から電車が遅れ、傘を会社に忘れ、修正した資料を再修正することになった。小さなことが何層も重なり、袋の底で最後の一枚が破れたようだった。

理央は袋を流しに置いた。パンを取り出すと、包装の外側が赤いだけで中身は無事だった。スープは半分ほど残っている。床に落ちた雫をティッシュで拭き、濡れたレシートを広げる。文字がにじみ、合計金額だけが辛うじて読めた。

友人から「週末どうする?」とメッセージが来ていた。先週、自分から食事に誘ったのに、今は予定を考えるだけで息が詰まる。楽しみだったはずの約束まで、やることの一つになっている。

理央はスープをマグカップへ移した。量が少なく、カップの半分にも届かない。パンをちぎって浸すと、染み込んだトマト味が思ったより濃かった。

きれいに食べるつもりだった。皿に盛り、テーブルを拭いて、写真に撮れるような夕食にするつもりだった。けれど実際は、流しの前に立ったまま、欠けたマグカップでこぼれたスープを飲んでいる。

理央は友人へ「今週ちょっとへとへと。来週でもいい?」と送った。送信したあと、嫌われたかもしれないという不安は残った。それでも、無理に楽しそうな返事をするより、今の自分に近かった。

パンでカップの底を拭うようにして食べる。床にはまだ薄い赤い跡がある。

全部拭き取らなくても、明日の朝に困るほどではない。今日の自分も、少しくらいこぼれたままでいい。

理央は濡れたレシートを丸め、ゴミ箱に入れた。

ゴミ箱のふたを閉めると、部屋にはトマトとパンの匂いが残った。理央は床の跡をまたいでベッドへ向かう。きれいな一日には戻せない。でも、こぼれたあとに食べる方法を見つけた自分を、失敗した側にだけ置かなくていいと思った。