ピアノは覚えている
灰谷律希は、母の命日にだけ、音楽室の古いピアノを弾く。
母は律希の教師だった。音を外せば指を止め、姿勢が崩れれば譜面を閉じた。褒める代わりに、弾き終えた譜面の端を二度叩いた。それが母なりの拍手だと分かったのは、亡くなってからだった。高校最後のコンクール前夜、律希は言った。
「もう、あなたのためには弾かない」
母は「そう」と答え、翌朝、急な病で倒れた。
あれから十八年。律希は演奏家になったが、母の前で弾いた最後の曲だけは舞台にかけなかった。
午前零時、終盤の高い嬰ヘ音を外した。
次の瞬間、指が十七歳の細さに戻っていた。
音楽室の窓には、十八年前の雪が降っている。背後に母が立っていた。
「そこ、違う」
同じ小節を正しく弾き終えるまで、過去から戻れない。それをピアノの鍵盤が知っているようだった。
律希はもう一度、わざと嬰ヘ音を外した。
曲は八小節前へ戻る。
「違う」
母が言う。
何度も外した。十回目で母は譜面を閉じた。
「いつまで間違える気」
「戻りたくない」
「どこへ」
律希は振り向いた。
母はまだ生きている。髪に白いものもなく、叱るための息を胸いっぱいに吸っている。
「明日、母さんは倒れる」
「だから?」
「だから、今、言わなきゃ」
律希は、コンクールが嫌だったことを話した。勝つたびに母が喜ぶから、辞めたいと言えなかったこと。自分は人の曲を完璧に弾くより、下手でも曲を作りたかったこと。
母は長く黙った。
「それで、十八年後のあなたは何を弾いてるの」
「まだ、人の曲」
「ずいぶん親孝行ね」
皮肉な口調が懐かしくて、律希は泣いた。
母は譜面を裏返した。
「なら、最後の八小節くらい、自分で作りなさい」
律希は鍵盤へ向き直った。
決められた嬰ヘ音ではなく、ずっと胸に残っていた和音を置く。母は止めなかった。
最後まで弾き終えると、雪が消えた。
現在の音楽室で、余韻だけが残っている。
翌月の演奏会。律希は十八年ぶりにその曲をプログラムへ載せた。
作曲者名の下に、小さく追記した。
《終結部 灰谷律希。最初の聴衆 母》