ベンチの端を空ける

桑原奏絵は、ホームのベンチで眠る女性と、その前を行き来する酔った男に気づいた。女性はキャリーケースを膝で挟み、コートの襟へ顔を埋めている。男は空いている席がいくつもあるのに、彼女のすぐ横へ座った。

奏絵は、黙って避けるのが嫌いだった。電車内で痴漢に遭ったときも声を上げ、そのせいで「騒ぎすぎ」と言われたことがある。騒がずに済ませるほうが正しいという空気を、今も許せない。

「そこ、連れが座ります」

奏絵が男と女性の間へ入ると、女性が目を覚ました。状況を見て、申し訳なさそうに首を振る。

「大丈夫です。刺激しないでください」

「大丈夫には見えません」

「見えなくていいんです。いなくなってほしいだけなので」

正面から止めたい奏絵と、存在を小さくしてやり過ごしたい女性では、やり方が合わない。男が「友達?」と笑った。

女性は答えず、キャリーケースを反対側から引き寄せた。奏絵の鞄とケースで、二人の前に低い壁ができる。

男がケースへ靴を当てると、女性は初めて顔を上げた。言い返す代わりに、ホーム番号と現在時刻をスマートフォンへ入力し、駅員呼出の場所を奏絵へ見せる。奏絵はすぐ押したかったが、女性は首を振り、男がもう一度近づいたらという意味で指を一本立てた。二人は同じ基準に同意したわけではない。それでも、次の一歩を決めておくことで待てた。次に女性はベンチの端へ詰め、奏絵一人分の場所を空けた。

奏絵は座った。男に言い返す代わりに、駅員室の灯りが見える向きへ体を変える。女性も同じ方向を向いた。男はしばらく立っていたが、電車が来る前に階段へ消えた。女性は駅員呼出の場所を示した画面を消さず、奏絵は男の上着と歩いた方向をメモした。届け出るかどうかは女性が決める。今夜また戻ってきたとき、何も覚えていない状態だけは避ける。その程度の準備なら、二人のやり方の間に置けた。

到着した車両は混んでいた。女性は乗らず、奏絵も乗らなかった。守るためでも、付き添うためでもない。次の電車のほうが空いていると、二人とも判断しただけだった。

ドアが閉まると、女性は端に置いた鞄を少し動かした。

今度は、二人分の席がきちんと空いた。