ポストまで三十七歩
小春は、誕生日の午後にホットケーキの作り方を書いた。
宛先は十歳下の従妹、花音。小春が入院してからも、月に一度は母親と見舞いに来て、売店のプリンを半分食べる。先週、「あの丸いやつ、家で作りたい」と言った。丸いやつとは、小春が元気だったころ、日曜の朝によく焼いた厚いホットケーキのことだった。
レシピは検索すればいくらでも出る。けれど花音は、小春が使っていた銀色のフライパンで作りたいらしい。
便箋の一行目に、卵一個、と書く。次に牛乳。粉の量を書こうとして、数字が思い出せない。小春は台所の棚から古い計量カップを出し、底に貼った油染みのメモを見た。
粉百五十。砂糖は大さじ一。混ぜすぎない。泡が三つ出たら返す。
手が震えて「三つ」が「王つ」に見えたので、そこだけ二重線で消した。新しい便箋に書き直すほどの力はない。花音なら笑うだろう。
最後に、焼く前にフライパンを濡れ布巾へ置く、と加えた。これは市販の箱には大きく書かれていない。父が焦がしたときに母が教え、その母から小春が覚えた手順だった。
裏返したら押さえつけないこと、という一文も加える。花音は待てずに何度もフライ返しを当てるだろう。焼き色が少しくらい斑でも食べられる、と書きかけて、その文は消した。失敗を先回りして慰めるより、まず焼く手順だけを渡したかった。
便箋を読み返し、材料の横に丸印、火加減の横に下線を引く。封筒に便箋を入れる。誕生日カードではないから、日付だけ右下に書いた。切手は引き出しに一枚残っていた、森の絵のものを選ぶ。
玄関から団地のポストまでは三十七歩。元気なころ数えたことはなかった。今日は杖をつき、母に腕を取られ、一歩ずつ数えた。
十三歩で休み、二十一歩で車が通るのを待つ。母は急かさず、封筒の角だけを支えた。
三十七歩目に、赤いポストがあった。投函口は肩より少し高い。小春は封筒を両手で持ち上げ、宛名が表を向いていることを確かめる。
指を離すと、封筒が中で乾いた音を立てた。小春は投函口の銀色の蓋を下ろした。