レンズの傷は左
諸星明良技官は、再生画面の空を見ていた。
左上に、細い白線がある。
羽生警備部長が提出したボディーカメラ映像は、デモ隊の男性が警察官へ鉄棒を振り上げる場面から始まる。直後に制圧され、男性は頭蓋骨を折った。現場機の原本は紛失したが、羽生の私用端末へ自動転送された複製が「唯一の映像」として採用される予定だった。
「真正性確認に署名しろ」
羽生が言った。
「時刻も音声も合っている」
明良は、同じカメラで撮られた前日の巡回映像を開いた。レンズの傷は右下にある。機器を落とした際についた半月形で、修理申請にも位置が記録されていた。
「この映像の傷は左上です」
「左右反転したんだろう。転送ソフトの仕様だ」
「文字は反転していません」
映像内の道路標識は正しく読める。傷だけが反対側にある。別のカメラで撮った映像へ、時刻表示と機器番号を重ねた可能性が高い。
さらに白線は、鉄棒が振り上げられる瞬間だけ消えていた。画面の一部を拡大して作られたため、傷の位置がフレーム外へ押し出されたのだ。男性が最初から鉄棒を持っていたのか、その前に何があったのかは分からない。分からない部分を切り捨て、映像は「正当な制圧」を語っている。
「原本がない以上、これを使うしかない」
羽生は低い声で言った。
「暴徒を守るために、現場の警察官を犯罪者へするのか」
「真正でない映像を真正だと認めれば、誰でも犯罪者にできます」
羽生は署名用紙を明良の前へ押した。
「拒否すれば、鑑定部門から外す。お前の名前で『判定不能』と書けば済む話だ」
明良は用紙を裏返した。空白の裏面へ、二つの傷の位置、転送ソフトが左右反転を行わないこと、部分拡大の痕跡を書き始めた。最後に、提出映像のハッシュ値と前日映像のハッシュ値を並べる。
真正性確認の署名欄には線を引き、その下へ「原本の代替として使用不可」と記した。
羽生が紙を破る前に、明良は複写機の送信ボタンを押した。原本管理部署、監察室、弁護側開示担当へ、同じ一枚が流れていった。