レンタルドレスのポケット

レンタルドレスの返却前、帆乃香はポケットから二枚の紙を取り出した。

一枚は、親友・理世の結婚式の席札。もう一枚は、築二十六年の中古マンションの購入申込書だった。

式場へ向かう途中、帆乃香はその部屋をもう一度だけ内見した。三十五平方メートル、古い一口コンロ、窓の外は線路。電車が通るたび、床がわずかに震える。それでも頭金なら払える。住宅ローンの仮審査も通っていた。

不動産担当者は言った。

「今決めないと、次の方へ回ります。ご結婚の予定があるなら、もう少し待つ手もありますけど」

予定はない。ないと言い切ると、未来まで閉じるようで怖くて、「今のところ」と答えた。

披露宴では、同じテーブルの友人たちが指輪や保育園の話をしていた。誰も帆乃香を急かさなかった。だからこそ、自分だけが見えないスタートラインに取り残された気がした。

理世が各席へ置いた手紙には、こうあった。

〈帆乃香の部屋で、床に座って朝まで話した夜が好きでした。これからも帰れる場所を増やしてね〉

帆乃香はその一文を、購入を勧める合図のように読みかけた。すぐにやめた。理世は何も知らない。誰かの祝福を、自分の決断の保証書にしてはいけない。

帰宅後、ドレスをハンガーにかける。机には賃貸契約の更新案内も置いてある。更新すれば身軽でいられる。買えば、修繕費も固定資産税も、売れない可能性も抱える。

二つの紙を並べると、席札の方がずっと華やかだった。

帆乃香は購入申込書の「単独名義」にチェックを入れ、署名した。結婚を諦めた印ではない。誰かと暮らす日が来たら、狭さに困るだろう。売って損をするかもしれない。

それでも、「未来の誰か」が現れるまで、今の自分を仮住まいにしたくなかった。

申込書を封筒へ入れたあと、席札を冷蔵庫に貼った。ドレスの返却袋には何も残さない。

翌朝、帆乃香は不動産会社のポストへ封筒を入れた。線路沿いの部屋が正解かどうかは、電車が通るたびに考えることになる。

その揺れまで、自分の床として引き受けるつもりだった。