一つだけ鳴る風鈴

 朝比奈美和は、夏になると部屋の窓を閉めきっていた。

 駅前のマンションは車の音が大きく、風を入れるより冷房をつけた方が静かだった。

 それでも今年、商店街の夏市で、透明な風鈴を一つ買った。

 硝子の表面には、白い朝顔が描かれている。

 店番の青年が「よく鳴りますよ」と言ったので、窓辺へ吊るした。

 ところが窓を閉めている限り、風鈴は鳴らない。

 冷房の風を当てると、短冊だけが斜めになり、音は乾いて聞こえた。

「何のために買ったんだろう」

 美和が独り言を言うと、ベランダ越しに隣室の老婦人が顔を出した。

「窓を少し開ければいいでしょう」

「外、うるさくないですか」

「うるさいよ。でも毎日同じ音じゃない」

 夕方、美和は窓を指一本ぶん開けた。

 車の音、遠くの踏切、子どもの声。最初は落ち着かなかった。

 しばらくして、細い風が入り、風鈴がちりんと鳴った。

 一度だけだった。

「鳴りましたね」

 老婦人が壁の向こうから言う。

「聞こえました?」

「一つしかないから、よく聞こえる」

 翌日から、日が落ちたあとだけ窓を開けた。

 風鈴は何度も鳴るわけではない。風が止まれば黙り、トラックが通った振動では少し揺れるだけ。

 美和は音を待つあいだ、ベランダの鉢へ水をやった。

 老婦人は紫蘇を育てていて、葉を数枚分けてくれた。

 二人で壁越しに夕飯の話をするようになった。

 美和は紫蘇を刻んで冷や奴へ載せ、老婦人は余った茗荷をこちらへ渡す。

「夏市、もう一つ買えばよかったかな」

 美和が言うと、老婦人は首を振った。

「たくさん鳴ると、風が分からなくなる」

 八月の終わり、夜風が少し涼しくなった。

 窓辺で素麺を食べていると、つゆの生姜と紫蘇の香りが部屋へ広がる。

 ちりん、と一つ鳴り、少し間を置いてもう一度鳴った。

 車の音も踏切も消えない。けれどその中に、硝子の涼しい響きが確かな居場所を作った。

 美和は冷房を切り、窓を手のひらぶん開けた。

 風鈴の短冊がゆっくり揺れる。

 静かさとは、音がないことではなく、聞きたい一つを見つけられることなのかもしれなかった。