一人カラオケの低い声
鷺沼恒星は、歌うときに周りの顔を見る癖がある。
高すぎないか、古すぎないか、長い曲で退屈させていないか。友人とのカラオケでは、盛り上がる曲ばかり選び、本当に好きな低い歌は入れなかった。
休日の午後、恒星は初めて一人でカラオケ店へ入った。
「一名です」
受付で言うとき少し緊張したが、店員は何事もなく番号札を渡した。
部屋は小さく、ソファは二人掛け。テーブルにはマイクが二本置かれていたが、一本を端へよけた。
最初は無難な曲を入れた。誰もいないのに、画面へ向かって愛想よく歌う自分がおかしかった。
三曲目に、ずっと歌いたかった古いバラードを入れた。
音域は低く、サビも派手ではない。恒星はキーを下げ、背もたれへ寄りかかったまま歌った。
途中で歌詞を間違えた。いつもなら笑ってごまかすところだが、今日はそのまま次の行へ進んだ。
採点画面には七十八点と出た。
「低いな」
呟くと、誰も否定しない。
恒星は採点機能を切った。
注文した蜂蜜レモンが届いた。
硝子のカップから甘酸っぱい湯気が立つ。喉を温めながら、次は子どもの頃に好きだったアニメの曲を歌った。高い部分は裏声になり、最後は息が続かなかった。それでも笑う相手はいないし、褒める相手もいない。
自分が楽しいかどうかだけが残った。
一時間の予定を三十分延長した。
最後の曲は、最初に歌ったバラードをもう一度入れた。今度は画面を見すぎず、目を閉じる。低い声が壁へ当たり、少し遅れて自分へ戻ってきた。
退室すると、廊下では別の部屋から賑やかな合唱が聞こえた。
恒星はそれを羨ましいとは思わなかった。大勢の歌も、一人の歌も、違う温度で楽しい。
外へ出ると、夕方の風が喉に冷たかった。
コートの襟へ顔を埋めると、蜂蜜とレモンの香りがまだ残っている。
エレベーターの鏡には、歌い終えたあとの少し赤い顔が映った。恒星は直さず、その顔のまま外へ出た。
恒星は駅まで小さく鼻歌を歌った。誰かに聞かせるには低すぎる声だったが、自分の歩幅にはちょうどよく合っていた。