一人分の乾杯

ワイン収集家の香椎が地下貯蔵庫から消えた。扉は外から施錠され、床下の搬入口も封印されたまま。午後十時、香椎の携帯から娘へ音声が送られており、「客と乾杯している。心配するな」という声の直後、グラス同士が触れたような音が二度鳴っていた。

貯蔵庫には赤ワインの入った二つのゴブレットが並んでいた。容疑者は娘の芹沢、専属ソムリエの日下部、商売敵の黒岩。芹沢は遺産をめぐって父と争い、黒岩は希少銘柄の所有権を争っていた。日下部は「九時に香椎を一人で残した」、黒岩は「招かれていない」、芹沢は「音声が届くまで自宅にいた」と話した。録音の乾杯相手が誰かによって、疑いの向きは変わる。

音響技師の羽鳥は録音と二客を調べた。

「手掛かりは三つです」

一つ目。録音の二度の音は、どちらも単一の周波数と同じ余韻しか持たない。水位の違う二つのゴブレットを打ち合わせれば、一回の接触に高低二つの共鳴が同時に含まれる。

二つ目。香椎側とされたゴブレットの縁に、細い黄銅色の擦れ跡がある。

三つ目。日下部の黄銅製ボトルオープナーには、その縁と同じ幅の新しい半月傷が付いていた。

二客を実際に合わせると、低い共鳴と高い共鳴が重なった。録音にあるのは、その混合音ではなく、同じ単音の反復だった。

日下部は苦笑した。

「栓を開ける道具です。グラスに触れても不思議はない」

「普通に開ければ、刃の側へガラスの傷は付きません」

羽鳥はオープナーを布越しに持ち、ゴブレットへ軽く当てた。録音と同じ硬い音が鳴った。

「録音にいる“客”は存在しません。あなたは一つのゴブレットを黄銅のオープナーへ二度当て、二人の乾杯に聞かせた。だから二度とも同じ単音になり、縁と道具に対応する擦れ傷が残った。異なる水位の二客なら、接触音には二つの共鳴が混じる。この三点は、日下部さんが一人で録音を作ったことを示します。十時の生存証明も客の存在も偽物です」羽鳥が再生を止めると、地下には本物の沈黙だけが戻った。警察は香椎が九時以前に運び出された経路を、日下部の配送車から調べ直した。卓上の二客は人数を示さず、音を作るための一客と、人数を偽るために置かれただけの一客だったのである。