一字だけ直して

楢原彩芽は、作家・万代乙彦の遺作を校了できずにいた。

締切は翌朝。

机の上には、最後の短編集のゲラがある。

著者は一週間前に亡くなり、赤字を入れる人はもういない。

午前零時、向かいの椅子が軋んだ。

万代が座っていた。

よれた背広、片方だけ上がった眉、締切を三日過ぎたときの顔。

「先生」

「一字だけ直せる」

幽霊の第一声がそれだった。

万代の手には赤鉛筆がある。

ただし芯は、一文字分しか残っていない。

彩芽はゲラを開いた。

誤字はすでに潰した。表記も揃えた。

けれど編集者として、どうしても気になる一文があった。

表題作の最後。

《彼はようやく、誰にも愛されない自由を得た。》

「『ない』を消して、愛される自由に」

彩芽が言う。

万代は鼻で笑った。

「甘い」

「遺作の最後ですよ」

「だから何だ」

「先生は、そんなふうに死んでない」

万代は生涯独身で、友人も少なかった。

だが入院中、病室には読者からの手紙が山ほど届いた。

彩芽も毎日通った。

本人だけが、それを愛と認めなかった。

「じゃあ先生は、どこを直したいんです」

「著者紹介の年齢。七十二ではなく七十一」

「誕生日を迎えたでしょう」

「寝ていた」

「起きてなくても年は取ります」

「不本意だ」

二人は夜中まで、一字の使い道を争った。

題名の漢字。

登場人物の名。

献辞の句点。

万代はどれも「余計だ」と退けた。

午前三時、彩芽は巻末のあとがきを開いた。

万代が生前、口述した短い文章だった。

《長く付き合った編集者には、ずいぶん迷惑をかけた。彼女は私の文章を理解しなかったが、締切だけは理解していた。》

「ここ」

彩芽は「理解しなかった」を指した。

「一字でどうする」

「知りません」

腹が立っていた。

二十年担当し、何度も喧嘩し、原稿を待ち、病室で口述を取った。

褒められたかったわけではない。

ただ、理解しなかったと最後に決めつけられるのは悔しかった。

万代は赤鉛筆を持ち上げた。

《彼女は私の文章を理解しなかった》の「な」を消し、「た」と書いた。

《彼女は私の文章を理解したかった》

少し不器用な文章だった。

彩芽は吹き出した。

「誤植です」

「編集者なら直せ」

「もう芯がない」

「では、そのままだ」

万代は満足そうに消えた。

朝、彩芽はその一字を残して校了した。

校正部から問い合わせが来たが、「著者の最終指定です」と答えた。

刊行後、読者からは意味について何通も手紙が届いた。

彩芽にも正解はわからない。

ただ、理解したかったという気持ちは、理解したという結論より長く残る。

人を読むことも同じなのだと、その一字を見るたび思った。