一本だけのフォーク

染谷亜希は、給料日の夕方、直径十二センチのチョコレートケーキを注文した。

店員が箱へ小さなフォークを二本入れたので、亜希は一本を返した。

「一人なので」

その言葉を、誰かに向かってはっきり言えたのは初めてだった。

三週間前、同棲していた恋人が部屋を出た。別れる直前まで、家計簿も休日も彼の予定に合わせ、亜希は一人で決める練習をしてこなかった。ケーキの味でさえ、二人なら彼の好きなものを選んだ。別れたはずなのに、彼は毎晩のように「家賃が大変なら戻る」と連絡してくる。実際、亜希の給料一人分では今の部屋は高い。新しい部屋の審査が通ったことを、まだ伝えていなかった。言えば、本当に一人になる。

帰宅してケーキを箱から出す。カカオの香りは濃く、冷えたクリームが一本のフォークへ重くまとわりついた。

亜希は包丁を使わず、丸いケーキの端から直接すくった。

二人で食べていたころは、必ず半分に線を引いた。彼の好きな飾りを左へ、自分の好きなクリームを右へ寄せ、同じ量になるよう何度も切り直した。今日の表面には境界線がない。

一口目は、彼の好きだった薄いチョコレート飾りごと食べた。ぱり、と割れたあと、苦みが残った。思い出を避けて食べると、いつまでも相手の取り分が残る気がした。

四分の一ほど食べて、亜希はフォークを置いた。まだ食べられたが、寂しさを満腹と取り違えないところで止めた。箱の丸が欠けていることを、失敗とは思わなかった。一人分だからといって、全部を今夜の胃へ入れる必要はない。残りを三つに切り、別々に包んで冷凍庫へ入れた。

新居の契約書を机に出し、恋人へ住所変更と合鍵の返送日だけを送った。「家賃は大丈夫」とは書かなかった。苦しいことと、戻ってほしくないことは両立する。

洗ったフォークを一本、引き出しの中央へ置く。以前は二本一組で揃えていた場所だった。

冷凍庫には三回分のケーキが残っている。次の給料日まで、一人で暮らす日を三度祝えるように。