一枚だけ現実へ
錆谷澄音は、仮想美術館〈無限廊〉の学芸員だった。現実には存在しない光、重力に逆らう彫刻、見る者の後悔で色を変える絵。館内には二百万点が収蔵されていた。
運営停止が決まり、会社は広報企画として「一作品だけ現実に残す」投票を始めた。最高得票作を物理媒体へ変換し、国立美術館へ寄贈するという。
有名作家の作品が競い合う中、澄音は収蔵庫の隅で一枚の落書きを見つけた。題名は〈おかあさんの海〉。難病の少女が十年前、見学中に描いた青い線だった。作者はすでに亡くなり、閲覧数は三だった。
少女の母へ連絡すると、投票には参加しないと断られた。「あの子は上手だから描いたんじゃありません。私へ見せたかっただけです」。その言葉で澄音は、保存とは作品を偉くすることではなく、誰かへ渡そうとした動きを止めないことだと思った。
澄音はその絵を候補に入れた。上司は怒った。
「美術史に残す一枚だぞ」
「だからです」
「子どもの落書きに価値はない」
澄音は展示室を一つ空け、落書きだけを飾った。説明文には、少女が海を見たことがなかったと記した。
投票最終日、〈おかあさんの海〉は二位だった。一位は、宇宙時代を代表する巨匠の作品。差は十二票。
停止一時間前、澄音は管理権限で自分の二十年分の業績評価を削除し、その計算資源を十二人の臨時来館者枠へ変えた。絵を見た来館者たちは一票ずつ入れた。
不正だった。澄音は資格を失い、退職金も消えた。
現実に印刷された〈おかあさんの海〉は、拍子抜けするほど小さかった。青い線は波というより、震えた心電図に見えた。批評家は選考を茶番と呼んだ。
数か月後、澄音は地方病院の廊下でその複製を見つけた。入院中の少年が絵の前で母親に尋ねた。
「海って、こんな形なの」
「あなたが見るときは、別の形かもね」
澄音は学芸員ではなくなり、倉庫整理の仕事をしていた。二百万点を救えなかった悔しさは消えない。
それでも、少年が紙に赤い海を描き始めるのを見て、澄音は初めて思った。
残ったのは一枚ではない。あの青い線から、次の一枚が始まっている。