一行だけ読める水門
「死語を一日一行だけ訳す? 碑文を読み終える前に老人になるぞ」
古代院の試験で、イーリャは無能と判定された。
【能力:《一行古訳》――一日に一度、未知の古代文字で書かれた一行だけを正確に理解する】
長い書物には向かず、文字を書き換える力もない。彼女は海底神殿の拓本係へ回された。
津波が王国へ迫った日、海底神殿が海上へ浮かんだ。
神殿は古代の防潮門だと伝わる。入口には百行の操作文があり、学者たちは第一行から順に解読していた。残り九十七行。波が来るまで一刻もない。
海王バルディオは扉を力で開こうとしたが、神殿はびくともしない。魔力を注ぐほど海面が盛り上がる。
イーリャは百行を最初から読む必要はないと思った。
前世の避難設備では、緊急操作ほど長い説明の最後か、手の届く場所に短く書かれる。彼女は入口ではなく、扉の取っ手の下へ潜った。海藻に隠れて、一行だけ逆さに刻まれている。
《一行古訳》。
――閉じるときは、海の側から「帰宅」と告げよ。
神殿はすでに開いていた。海底から浮上したため、巨大な門が海へ向かって開き、津波を王国側へ通す形になっている。正面の百行は平時の起動説明。必要なのは内側の閉鎖手順だった。
「誰が海の側へ行ける!」
バルディオが叫ぶ。
イーリャは神殿の縁から海へ飛び込んだ。王の水竜が追いつき、彼女を門の外側へ運ぶ。
迫る津波の壁の前で、イーリャは古代語の「帰宅」を叫んだ。
神殿全体が鳴る。
左右の海底から石の門翼が立ち上がり、津波の直前で閉じた。水壁は防潮門へぶつかり、二つに割れて無人の湾へ流れる。王都の港へ届いたのは、係留船を一度だけ静かに持ち上げ、桟橋の魚籠を揺らす波だけだった。
学者が「百行を読まなければ本当の機能は分からない」と抗議する。
バルディオは濡れた拓本を丸め、その頭を軽く叩いた。
「災害は学者が読み終えるまで待たぬ」
海王は神殿の青印をイーリャへ渡した。
「次に百行あるなら、まず最後と裏側をおまえが選べ」