一行目の発明者
研究所の休憩室で、柊ヶ谷真珠里は雲居坂瑛志へ婚約破棄を告げた。
「恭星さんは主任研究員で、国際学会にも呼ばれてる。瑛志は試薬を作る補助員でしょう?」
橘ノ森恭星は白衣のポケットへ手を入れた。
「才能には順位がある。君は裏方として優秀だが、真珠里を任せるには将来性が足りない」
瑛志は、二人が連名で出した論文を見た。中核となる触媒の設計だけ、発明者欄から自分の名が消えている。
「その特許、来週の契約前に訂正したほうがいい」
恭星は笑った。
「証拠があるなら、どうぞ」
国際企業とのライセンス契約式。恭星は発明者として中央席へ座り、真珠里は将来の研究所長夫人のように振る舞っていた。
特許庁の記録が画面へ映る。
最初の実験ノート、電子署名、試薬の製造履歴。触媒構造を考案し、最初に合成したのは瑛志だった。彼は補助員ではなく、大学発企業の共同創業者で、特許権の七割を個人会社で保有していた。研究所へ出向し、量産工程だけを現場で詰めていたのだ。肩書を上げるより、不良率を一桁下げることを選んでいた。
恭星が提出した図面は、瑛志のクラウドノートを無断で複写したものだった。アクセス履歴には日時と端末番号が残っている。
研究所長は恭星を契約式から外し、論文撤回と懲戒調査を告げた。
真珠里が瑛志へ駆け寄る。
「共同創業者なら、どうして主任にならなかったの?」
「役職より、反応槽の温度を見ていたかったから」
海外企業が提示した契約一時金は八百億円。継続使用料は売上の五パーセントで、その大半が瑛志へ支払われる。さらに彼の会社は、契約先から追加出資を受けることになった。
恭星は最後に言った。
「僕が発表したから価値が付いたんだ」
契約担当者は特許書類の一行目を指した。
「我々が契約する相手は、発表者ではなく発明者です」
発明者欄へ雲居坂瑛志の名が復元され、恭星の名が削除された瞬間、真珠里が選んだ“将来性”は白紙になり、裏方だと思って捨てた男だけが八百億円の未来を持っていた。