三十日だけの住所
越智果歩が開いていた予約画面には、二つのプランが並んでいた。
「三十日体験プラン」と「一年契約プラン」。
家具付きの小さな部屋で、英知と暮らしてみるためのサービスだった。体験プランは割高で、住所変更もできない。一年契約なら家賃は安く、同じ建物の広い部屋を選べる。
「もう五年付き合ってるんだし、今さら体験って変じゃない?」
英知は笑った。責める声ではない。果歩も、そう思う。二十九歳で一か月のお試し同棲など、学生のようだ。周囲はもっと大きな決断をしているのに、自分だけ返却可能な未来を選ぼうとしている。
けれど、付き合うことと暮らすことのあいだには、歯磨き粉の蓋や、洗濯物の干し方や、話しかけてほしくない夕方がある。果歩はそれを、愛情で越えられる障害ではなく、実際に確かめる生活だと思っていた。
画面の横には二つの封筒がある。今の部屋を解約する書類と、体験部屋の案内。解約書へ署名すれば、一年契約を選ぶしかなくなる。残せば一か月分、家賃を二重に払う。
英知からメッセージが届いた。
〈一年で予約するなら、今夜中が割引だって〉
果歩は三十日プランを押した。割引は消え、支払額が赤く表示された。
〈私は三十日を選ぶ。終わった日に、続けるかやめるか話したい。試されてると感じるなら、始めないほうがいい〉
送信後、英知の入力中の点が長く揺れた。
やがて〈分かった。三十日で逃げないように、俺もちゃんと暮らす〉と返ってきた。
その言葉が約束どおりになる保証はない。果歩自身も、三十日後には寂しさに負けるかもしれない。
果歩は荷物一覧を作り、皿を一枚、タオルを二枚、読みかけの本を三冊と書いた。良い同居人に見せるための物は入れない。普段どおり散らかし、普段どおり黙り、嫌な癖も早めに出す。その三十日で嫌われるなら、一年契約の十一か月目よりましだと思うことにした。
それでも予約確認メールの「滞在期間」を見て、果歩は短さを恥じなかった。三十日ぶんの住所を、三十日ぶんの責任で選んだ。