三枚の切符と止まる針

 桜庭柚葉は、弟の結婚式へ行かなかった。

 新幹線の切符もドレスも用意したのに、当日の朝、途中駅で降りて帰宅した。理由を思い出せない。弟からは責められなかった。それがかえって苦しく、半年間、連絡できずにいた。家族写真が届いても開けず、弟の誕生日には文章を何度も書き直して、結局スタンプ一つ送れなかった。

 久瀬暁人は、切符鋏を首から下げた時計職人だった。修理台には、穴の形が違う古い切符が三枚並んでいる。どれも行き先の文字が擦れているのに、改札印だけは新しい。柚葉が触れようとすると、暁人は切符鋏を閉じ、指先を静かに止めた。

「これは、帰れた人の分です」

「乗り換えは一度だけ」

 暁人は柚葉の腕時計を受け取り、切符鋏で空中を切った。

「人生訓ですか」

「作業上の注意です。記憶から記憶へ何度も逃げると、帰れなくなる」

 時計の長針は、途中駅に着いた午前九時二十二分で止まっていた。

 ひと鋏目。ホームに降りた柚葉の記憶が開く。人の多さ、香水、アナウンス。胸が締まり、呼吸が浅くなる。

 ふた鋏目。前夜、弟から届いたメッセージ。

『無理なら途中で降りて。姉ちゃんは式の備品じゃないから』

 柚葉はそれを読み、安心して泣いた。数年前から人混みで起きる発作を、弟にだけは隠せなかった。

「じゃあ私は、弟の優しさに甘えて」

「違います」

 暁人は三枚目の切符に鋏を入れなかった。

「ここから先は、今日の切符です」

 差し出されたのは、弟夫婦が暮らす町までの普通列車の切符だった。指定席も時間もない。

「どうして持ってるんですか」

「弟さんが昨日、同じ型の時計を修理に来た。姉はたぶん、速い列車が苦手だから、と」

 柚葉は笑いながら顔を覆った。暁人は見ないふりで、時計の針を九時二十三分へ進める。

「乗り換えは一度だけ。過去から今日へ」

 駅へ向かう柚葉の背中へ、切符鋏の乾いた音が届いた。

 振り返ると、暁人は首から道具を外している。三枚の古い切符は、客が帰れた日だけ穴を開けるのだという。

 その日、四枚目に小さな桜形の穴が開いた。欠けた印ではなく、柚葉がもう一度、弟の町へ向かうための入口だった。