下手な歌の値段
櫟田澄火の夫は、音楽生成AIが選ぶ曲には必ず微笑んだ。脳波に合わせて旋律が変わり、懐かしさも喜びも最適な強さで与えられる。認知症が進んでからも、その反応だけは正確だった。
若い頃、二人は小さな合唱団にいた。夫は音程に厳しく、澄火が二番を間違えるたび、練習後の喫茶店でからかった。自動作曲が普及し、団員が減って解散すると、夫は「もう下手な歌を聞かなくて済む」と笑った。澄火はそれを寂しいと言えなかった。完璧な音楽の前では、自分の声を出すこと自体が迷惑に思えた。
けれど澄火の名前は忘れた。
ある晩、配信が保守で三分止まった。夫は不安そうに天井を見つめた。澄火は沈黙に耐えられず、若い頃によく歌った子守歌を口ずさんだ。
音程は外れ、声は掠れた。夫は眉を寄せた。
「下手だなあ」
それは、四十年前と同じ言い方だった。
澄火は歌い続けた。二番の歌詞を間違えると、夫が小さく笑った。
「澄火は、そこをいつも間違える」
名前を呼ばれたのは、それが最後だった。
三分後に配信が戻ると、夫の表情はまた穏やかな微笑へ戻った。澄火は、名前を呼んだ瞬間だけ録音できていなかったことを後で知った。悔しかったが、記録がないからこそ、あれは自分一人が守る記憶になった。
翌朝、夫は亡くなった。施設から、無許可発声による療養環境の乱れとして罰金通知が届いた。澄火は最高級音楽契約を解約し、その金で支払った。
葬儀では完璧な追悼曲が流れた。澄火は途中で音源を止め、同じ子守歌を歌った。親族は戸惑い、孫は笑いをこらえた。最後には、誰かが間違った歌詞で加わった。
最初に頼んだのは、夫と同じ施設にいた無口な男性の娘だった。父が好きだった曲を知らず、葬儀AIにも履歴がなかった。澄火は男性が廊下でよく叩いていた指のリズムから、勝手な歌を作った。娘は「たぶん全然違う」と泣きながら笑った。
それから澄火は、別れの場で歌を頼まれるようになった。上手に歌える曲は一つもない。
「料金はいくらですか」と聞かれると、彼女は答えた。
「その人がよく間違えたことを、一つ教えてください」
完璧な曲は記憶を刺激した。下手な歌は、二人だけの時間を連れてきた。
澄火はその違いを、夫が残した最後の仕事だと思っている。