二つ目の印鑑

久我山章平が祖母・多喜乃の介護を始めたころ、叔母の美佐穂は「孫が財産目当てで近づいた」と親戚へ触れ回った。だが通院にも入浴にも来ず、祖母のマンションだけは自分が継ぐと言い続けた。

多喜乃が重い肺炎で入院した月、美佐穂は一通の贈与契約書を持って現れた。

「お母さんはこの部屋を私にくれるって。印鑑も押してある」

日付は入院三日目。署名は震えているが、実印の印影は鮮明だった。章平が異議を唱えると、美佐穂の夫・信章は「孫に口を出す資格はない」と登記を急がせた。

多喜乃は回復せず、二か月後に亡くなった。四十九日の法要が済むと、美佐穂は章平の荷物を廊下へ出し、鍵を交換する。

「介護は終わったでしょう。ここは私の家よ」

章平は祖母の写真だけを抱え、廊下で待っていた司法書士へ合図した。

多喜乃は肺炎になる半年前、公正証書遺言を作っていた。マンションを章平へ遺贈し、美佐穂には生前に渡した事業資金を相続分として考慮する。作成時の判断能力について医師の診断書と面談映像もある。

問題は、後から出た贈与契約書だった。

病院の面会記録では、その日、美佐穂は十五分だけ病室に入っている。多喜乃は酸素マスクを着け、鎮静薬で眠っており、筆記はできなかった。さらに契約書の印影は、実印ではなく、章平が介護用品の受取用に預けていた認印を精密に加工したものだった。

鑑定人が二つの印影を重ねると、円周の欠け方まで同じ画像が映る。美佐穂は言葉を失った。

「家族の間で、ちょっと先に押しただけよ」

章平の弁護士は、登記申請書、偽造された委任状、鍵交換の請求書を証拠袋へ入れた。遺言の偽造や詐欺的な財産取得が認められれば、相続欠格や損害賠償の問題になると告げる。

美佐穂が章平の袖をつかんだ。

「マンションは半分でいい。警察だけはやめて」

章平は祖母から預かった本物の実印を取り出した。それは生前に封印され、銀行の貸金庫から相続手続の立会いで今朝取り出したばかりだった。

弁護士が廊下の警察官へ扉を開ける。

「二つ目の印鑑が本物です。あなたが使った一つ目は、相続の道具ではなく、偽造の証拠になりました」