二本のペンの翻訳

ゲーム翻訳会社の伊織志津は、黒と青の万年筆を一本ずつ胸に挿している。

白いシャツの袖口は両方ともインクまみれ。黒で原文を書き、青で訳文を書く。モニターを使えば早いのに、重要な台詞だけは必ず紙へ移す。

「直訳は一番上品な嘘」

小日向澄花が相談したのは、恋愛ゲームの最終章だった。主人公に裏切られた女性が言う“I don’t mind.”を、取引先は「あなたに従います」と訳すよう指定している。

「意味が違います。でも、先方は女性らしい台詞にしたいと」

「君ならどうする」

「『構わない』です。ただ、声にすると冷たすぎる」

「冷たいのは台詞か、状況か」

志津は黒いペンで「あなたに従います」、青で「もう、私が決める」と書いた。文字数も口の動きもほぼ同じだ。

澄花は息をのんだ。

「反対の意味です」

「原文の彼女は、相手を許したんじゃない。相手に心を決めさせる権利を渡さないと言っている」

先方は当然、修正を拒んだ。担当者は『一行にこだわって納期を危険にさらすな』と言った。澄花も一度は黒い訳へ戻しかけたが、志津は二本のペンを机へ置き、選ぶ責任まで上司へ渡すなと告げた。

志津は二種類の仮音声を用意し、文脈を知らないテスターへ聞かせた。黒の訳では、女性が急に従属したように感じるという回答が続いた。青の訳では、別れの決意が伝わった。

「データで殴るんですね」

「説得だ。殴る時はペンを置く」

最終的に青の台詞が採用された。ただし先方は、翻訳者名をスタッフロールに載せないことを条件にした。

志津は契約書を閉じる。

「では納品しません」

「台詞は通ったんですよ」

「言葉を選んだ人間を消して、女性の意思を守った顔はできない」

再交渉の末、澄花の名は初めてスタッフロールへ入った。発売後、「この台詞で救われた」という感想が届いたが、志津はそれを採用理由に加えなかった。人気で訳を正当化すれば、次は人気に従うことになる。守ったのは評判ではなく、物語の中で彼女が選んだ意味だった。

納品日、志津は青い万年筆を彼女へ渡した。

「これは訳文用ですよね」

「今日から違う。署名用だ」

澄花が受領書に名前を書くと、青いインクが少し震えた。

「直訳は一番上品な嘘。だから、自分の名前だけは訳すな」