二枚の切符と冷や汁
越智すずが故郷を出る朝、父は祖母の冷や汁を作った。
転職で東京へ行く、とだけ伝えてある。ほんとうは恋人の女性と暮らすためだ。二人で借りた部屋も、同じ列車の切符も、鞄の底へ隠していた。
父が反対するかは分からない。分からないまま嫌われるのが怖くて、仕事の話だけで引っ越しを説明した。祖母が生きていたころなら、先に話せた気がする。恋人が初めて家へ来た夏、祖母は二人分の冷や汁を出し、帰ったあとに「あの子は胡瓜を最後に食べるね」とだけ言った。気づいていたのか、ただ食べ方を見ていたのか、すずは確かめられないままだ。
食卓には一人分の冷や汁があった。父は向かいへ座らず、流しで包丁を洗っている。引っ越し先の住所は紙に書かせたのに、誰と住むのかは一度も尋ねなかった。その無関心に安心したふりをしながら、ほんとうは一度くらい聞いてほしかった。
炒った胡麻の香りが味噌と混じる。冷えた器を持ち、すずは汁を一口すすった。薄く切った胡瓜が奥歯で軽く鳴った。祖母のレシピは、出汁を火から下ろしてから味噌を溶き、最後に氷を一つ落とす。
すずは急いで食べた。駅まであと三十分。父と目が合う前に、嘘のまま家を出たかった。
半分を過ぎたころ、器の底から小さな氷が現れた。祖母は「食べ終わるころに味が薄くなるくらいでいい」と言った。濃いまま持っていこうとしない味だった。
すずは箸を止めた。
鞄から切符を二枚出し、食卓へ重ねずに置く。自分の名前の隣には、恋人の名前が印字されている。
父は包丁を拭き終え、切符を見た。それから冷蔵庫を開け、小さな保存瓶を一つ出す。祖母の冷や汁用に擦った胡麻だった。
「余った分、持つか」
それだけだった。
すずは器に残っていた汁を、最後の胡瓜一枚まで食べた。薄くなった味は、最初より頼りない。それでも喉を通った。
空の器の横へ、父が保存瓶を置く。すずは二枚の切符を隠さず、その上に瓶を重ねた。
家を出るとき、嘘は全部説明できなかった。けれど父の前に、一人分ではない行き先を残していった。