五分を盗む部屋

古いアパートの六畳間で、母は子どもと二人で暮らしていた。

昼は弁当工場、夜は清掃。

眠いと言う時間も惜しく、何を聞かれても、

「まだ大丈夫」

と答えた。

その言葉を口にするたび、部屋の時計が五分だけ止まった。

外を走る車も、隣室のテレビも、湯を沸かす音も消える。

部屋は世界から五分を盗んだ。

最初、母は故障だと思った。

だが腕時計も電子レンジも同時に止まり、きっかり五分後に動き出す。

子どもだけは、その五分の間も動けた。

「お母さん、今、寝ていいよ」

子どもが言った。

「五分じゃ何も変わらない」

「五分なら怒られない」

母が座布団へ横になると、五分は驚くほど長かった。

目を閉じ、子どもが毛布を掛ける手を感じた。

世界が戻ると、湯がまた沸き始めた。

それから子どもは、母が「まだ大丈夫」と言うのを待った。

五分止まれば、茶を入れ、洗濯物を一枚畳み、母の靴下を脱がせた。

小さな世話を焼く子どもを見て、母はだんだん言葉を使えなくなった。

ある夜、工場で倒れかけた。

上司に休むよう言われても、

「まだ大丈夫です」

と答えた。

何も止まらなかった。

家の外では、部屋は時間を盗んでくれない。

帰宅し、玄関で同じ言葉を言うと、世界が止まった。

子どもは母の顔を見て、

「今日の五分じゃ足りない」

と言った。

母は初めて、

「もう大丈夫じゃない」

と答えた。

時計は止まらなかった。

代わりに子どもが近所の大家を呼んだ。

大家は翌朝、役所の窓口へ付き添い、使える支援を教えた。

母は夜の仕事を減らし、工場でも勤務を調整してもらった。

収入は少し減ったが、夕食を一緒に食べる日が増えた。

部屋はその後も、ときどき五分を盗んだ。

母が本当に平気なのに、昔の癖で「まだ大丈夫」と言ったときは止まらない。

無理を隠したときだけ、静かになる。

やがて母は、時計が止まる前に休めるようになった。

「今日は疲れた」

そう言って横になると、子どもも隣へ転がった。

六畳間には普通の五分が流れた。

車の音も、隣のテレビも聞こえる。

盗んだ時間より、二人で堂々と使う時間の方が、ずっと長く感じられた。